朝。
授業前のおしゃべりが騒がしい大教室に入ると、いつも通り気遣わしげな視線がチラチラ投げられる。それを無視してキャンバス地のトートバッグを放り出すと、ビクっと肩を震わせた前列の女子グループが、そそくさと席を立って離れた列に移動した。
この腫れものに触るような態度の原因は、僕が短気だからじゃない。付き合って初めて一緒に朝を迎えたその日に、奏多(フォロワー数四桁)が「みんなに俺の幸せお裾分けしま~~っす!」と僕の寝顔をSNSにUPしたせいだ。
つまり僕と奏多の仲は大学を越えてまあまあ世間に知れ渡っていて、言わば今の僕は「恋人を亡くしたものすごく触れにくい人」な訳だ。
──別に……その方がいいけどね……。
憐れまれるのも、励まされるのも真っ平だから。いつもよりも強めに「近付くなオーラ」を発しつつテキストとルーズリーフを鞄から取り出す──と、頭上から声を掛けられた。
「おはようトモ」
声を掛けてきたのは数少ない友人の沖田だった。忍者かってぐらい静かに、一席開けた隣に座る。
「──調子どう?」
「彼氏死んだ人間に調子尋ねんなや、最悪に決まっとるやろ」
「ああ……そうだよな、無神経だった……」
僕の八つ当たりを受け止めた沖田は俯いて、「雰囲気イケメン」と称されがちなまあまあの顔面を曇らせた。こいつはとてもいい奴で、奏多の死に悲しむ代わりに尖る方を選んだ僕を、なにかと気にし続けてくれていた。それでもこんな風に近くに座られるのはかなり久々だ。今日は話しかけるなオーラ強めのはずなのに、どうして突撃して来たんだろう。
「ああ、それは……なんか、このごろ顔色が良い気がして。少しは、元気に見えて」
「顔色が良い」とオウム返しした僕に沖田は慌てた。「勿論そんなに早く傷が癒えるとは思って無い」とかなんとか言いながら、良い居酒屋を見つけたから行かないかと誘ってきた。焼き肉みたいに炭火で鶏肉を焼くんだと。けれどそんな沖田の声は最早僕には届かない。「顔色が良い」「元気そう」客観的にそう見えたという事実に、大きな打撃を受けていた。
──まさか。
心当たりは、無くもない。
**
「あっ! おかえりトモ……♡」
「……ただ、いま……」
実は、とても沖田には言えないけど、僕はまだあのオッサンと同居している。一晩だけなら──そう思って、奏多のズボンが腰まで上がらなくて、半ケツどころか太股の途中で止まって巨大なケツ丸出し状態だったあのオッサンを「絶対触るな。触ったら即追い出す」の条件つきではあるけど、一週間が経った今でもまだ、泊めているのだ。
何でって。あれから色々あったんだよ。
あの日の夜、一晩だけ泊めてやると言った後、オッサンは、エッチが駄目ならゲームをしようと持ちかけてきた。奏多との大事な──そして悲しい思い出の残る『ジ・エターナルタイズ』というゲームだ。
『これをやれば、俺が俺だって……俺の魂がこの男性の中にあるんだってこと、分かってもらえると思う』
親指で自分を指す、というキモすぎる仕草にぞっとしつつ、僕はそれはいくら何でも無理だと思った。
毎晩毎晩飽きもしないでやっていたこのゲームのテーマは「絆」で、二人一組で謎ときをしながらダンジョンを進み、その都度倒し方が異なる「階層の主」を倒してゆくものだ。それは同時に複雑なコード入力を短時間でこなしたり、違う場所で同じ動きをしたりというもので、つまり、シンクロしなくては先に進めないのだ。
勿論オンライン上でその都度相棒を見つけることも出来るし、上級プレイヤーなら初対面でもシンクロできることもあるだろう。でも、僕らはイベントの度に結構な額を課金して完全クリアしているガチ勢だ。今のステージにしろイベントにしろ、いかにもニブそうなこのオッサンに奏多のフリが出来るはず無い。
自信満々のオッサンの鼻を明かすチャンスだと、僕はあの日以来ずっと手をつけていなかったセーブデータを呼び起こす。
そしてオッサンが、何も言わないのにIDとパスワードを入れてキャラを呼び出して、装備を揃えていくのを眺めていた。まあ、出来てここまでだろうと。
でも予想に反してオッサンの手先は俊敏で、ゲーム慣れしているのは間違いないようだった。コントローラー裁きの年季の入り方も行動も、至るところで奏多のそれを彷彿とさせる。
『トモ、あのボタン片っ端から押して。俺はランプの点灯順覚える』
役割分担もいつもと同じ。動くのが僕で頭を使うのが(オッサンが動かす)奏多 (のキャラ)。残念ながら時間切れでミッションは失敗に終わってしまい、オッサンは「畜生! この身体レスポンス最悪だ!」とキモい悔しがり方をしていたけれど、僕はとても不思議な感覚を味わっていた。
アイテムボックスの内のアイテムがいくつか増えた、ただそれだけなのに。
増えたプレイ時間の分だけ、自分も前に進めたような気がしたのだ。
だから「そうだ!」と翌朝オッサンが思いついた「卵焼きの味で信じてもらう」作戦を「クソ塩辛いんじゃ! そもそもそんな特徴無いわ!」と罵りで終了させても、出て行けとそれほど強くは言わなかったのだ。
あれから毎晩、僕はオッサンと一緒にゲームをやっている。
そして。
「トモ! 授業フルにあって疲れただろ? ご飯食べよ!」
オッサンは僕に、朝夕のご飯を作り続けている。
「……今日、何……?」
無精ひげをそって伸び放題の髪をひとくくりにしたオッサンが、じゃーん、とホットプレートの蓋を開ける。途端、湯気に包まれて肉汁とごま油の良い香りが立ち上った。
──えっ……やった……。
「エヘヘ、トモが笑った……。餃子、大好きだったなあって思い出したから頑張って作ったよ! この身体バカ舌だから味付けは皮の袋に書いてあったレシピ通り」
XXLサイズの黒いスウェット上下(あんまりヒドイから買ってやった)に奏多のグレーに白いラインが入ったカーディガンを羽織ったオッサンが、ぎっしり並んだ餃子を前に笑う。その真ん丸な笑顔の後ろに、奏多の爽やかスマイルが見えた。
この錯覚も、もう割とお馴染みになってしまった。今本当に奏多が生まれ変わって目の前に現れたとしたら、このオッサンが思い浮かぶくらいには。
「どう……? 初めて作るから……」
僕の口元を凝視する不安げなオッサンに僕は頷いて見せた。
「美味しいと……思う……」
やった! ガッツポーズしたオッサンを見ながら「顔色が良い」と称される原因を口に運んだ。美味しい。全然美味しい。オッサンはこの一週間、必死で料理を頑張っていた。僕に何度駄目出しをされてもへこたれず、多分今日、奏多を越えた。
「あ、それから、仕事決まったよ……」
唐突な発表にエッと仰天した。確かに清潔感がぐっと出て、内面のせいかおうち無い系の人が醸し出す暗さは消えているけど、とはいえ学歴不明、職歴不明の46歳メタボだから、求人に応募しても応募しても、書類選考段階での不採用が続いていたのだ。
「嘘やん……! 何すんの」
48連敗の後にオッサンが掴んだのは早朝の、ビルの清掃バイトだった。
「それ、キツくないん……オッサンすぐ息切れんのに、そんなん出来へんやろ」
「大丈夫! 頑張るよ! 勿論ずっとじゃない。トモがエッチさせてくれるようになったら即仕事変わるからね」
「……それやったら、死ぬまでずっとそのバイトやん……」
またまたあ! とオッサンは奏多と同じレベルのスーパーポジティブで笑い飛ばした。
「トモが信じてくれなくても、俺はトモを内面だけでもう一回惚れさせてみせるからね! もう胃袋は掴んでるだろ? ゲームだってかなり上達してるし!」
アホか……。そんな理由でエッチせんわ……。
「無理やって、僕は面食いやねん……オッサンめっちゃ良く言ってゆるキャラやからな」
えっ何県の? とちゃうねん……キモ……いや、ちょっとだけかわいい。いや、嘘。
「うーんダメかあ……俺、この一週間でかなりイケメンになってると思うけど……目とか鋭くてカッコ良い系じゃない?」
「生憎鋭さとは無縁やで……むくみ過ぎで造作分からんねん。塩分控えろや……」
言いながら、奏多も自分の客観視が苦手だったことを思い出した。生前は自分の外見の良さをさほど意識せず、別に普通なのにね、と評価して、今はカッコ悪いのにカッコいいと思っている。
──え、今は……? 僕何て?
ありえんありえん、と首を振った。このオッサンが奏多のはずない。
──でも……。
決して奏多のはずは無いのに、魂が甦るなんてありえないのに、奏多の死と共に失った何かが戻って来た──そのことはもう、否定できそうに無かった。
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