4話 名前を呼んで

『ぴよぴよ ぴよぴよ』

──何の音……まだ夜やん。

 うるさいなあと思っていたらベッドの足元でゴソゴソ物音がして音が止まる。そしてその五分後、また同じぴよぴよ音が、若干音量を増して鳴り始めた。

──あ……そや……。

 音の正体に思い当たり、枕を掴んで足元を覗きこむ。

「オッサン起きろや……バイト初日ちゃうんか……」

 僕の家は4畳半程の広さの台所と8畳の洋室しかないから、最初オッサンには寝袋と共に台所の片隅を貸してやっていた。なのに朝になるといつでもベッドの足元の1メートルぐらいの隙間で寝ていて、今も例にもれずそこにいる。本人はいつ移動しているか覚えていないと言うけど、目覚ましまでしっかり持って、怪しいものだ。

「オイ……誰が履歴書10袋も買ってやったと思ってんねん……」

 嫌々揺さぶると、どんな俊敏さだって早さで腕が伸びて来る。

「トモ……いつものチューして……♡」

 僕は無言で枕(そばがら)を顔に押し付けた。グッと詰まった喉の音をしばらく聞いてから解放して蹴り起こす。抗議の声を上げながら、もそもそ這い出て来た。その姿、正に脱皮。

「酷い…‥‥いつもしてくれてたのに……エッチした朝は俺が起こしてたけど♡」

 え……その通り……。

「……とちゃうわ! オッサンまさか盗聴しとったんか?」
「違う違う! 知ってるだけだって……俺が起こそうとしたらまたトモが甘えてくるから朝ラウンド始まっちゃって……」
「あくまでも貫いてくるな! ええ加減にせえよ……!」
「はあ……かわいい系彼氏もいいと思うんだけどなあ」
「……確かにかわいい系彼氏でもええけどオッサンは違うで」

 うそお! とちゃうねん。はよ行って来いや。

「敷金礼金稼いだら出て行けよ!」

 念を押して叩き出して扉を閉める。虫の抜けがらみたいにびろんと床に広がっていた寝袋をベッドの足元に蹴り飛ばした途端、部屋がガランと広くなった。視線の先に笑顔の奏多の写真があって、つり気味の大きな瞳と目が合ったのが久しぶりだと気がついた。

 何とも薄情な自分が嫌になる。奏多を思って泣き暮らすはずだったのに、涙を流した記憶はオッサンに「なめとんか」と言いながら泣いた20秒程しか無い。でも、ゆっくり向きあう時間が無かったのも事実だ。

 この週末も、オッサンがバイトに着て行く服を買いに行ったり散髪に連れていったり、映画に行ったりで忙しかったから。

「奏多……ほったらかしでごめんな……あのオッサンといたら……なんかさ……一緒に過ごしてるような気になるねん……ほんま、座り方も食べ方も……完コピやで」

 独り言をつぶやけば写真とオッサンの顔が重なってしまう。若干スッキリしたニコニコ笑顔にもう吐き気は起こらなくて、ただ、激しく微妙な気分になった。

「ちゃんと、出て行ってもらうよ……オッサン時給1200円って言ってたから……一日4時間で約五千円……週5入ったとして月10万円……敷金礼金ぐらいすぐ貯まる……」

──いや、貯まらんやん! この辺の物価安いけど最低三ケ月は掛かるやん!

 計算して驚いて、でもまあ仕方ないと思い直す。

「……もうすぐクリスマスやもんな……ハレルヤ……」

 奏多は僕だけじゃなく生きとし生けるもの全般に親切だったから、僕がオッサンとクリスマスしているのを空から見てたって、きっと許してくれると思う。

「あ、そや。ご飯炊いとこ」

 オッサンが帰ってきた時食べる用にたっぷり4合炊いておく。ちょっと残りが心もとないから、母親にメールで米の追加を頼んで。そうだ、それから……。

 布団も送ってもらおう。体調崩してバイトできんくなったら、いつまでも出て行かなくなって困るもんな。

「え? これ俺の?」
「ウン、お祝い的な……」
「トモーーーッ♡ やっぱり優しい!」

 数日後、届いた布団セットを見るなり抱きつかれそうな気配を察知。素早くかわすと、オッサンは勢いよく普通にフローリングに転がった。でも、痛いと言いながらも喜び続けた。

「これで落ちる心配なくエッチできる! 何回か落ちたことあるもんな」

──盗撮……?

 探索を兼ねて急きょ布団スペース確保の模様替えを行った結果、二人掛けソファをキッチンの隅に移動した(隠しカメラは無かった)。となると、ゲーム用のイスが無くなるから、オッサンの給料が出次第座椅子二点を買うことを決める。

 いや、普通に出て行ってもらうよ。当たり前やん。

「……何、オッサン。横見とらんと手動かして」

 恒例の夕食後のゲームタイムにふと視線を感じて尋ねると、実はお願いがあるんだとモジモジ切り出した。

 オッサンではなく、名前で呼んで欲しいらしい。

「ふーん……何て呼んで欲しいん」
「何でも」

 それなら、と僕はちょっと意地悪な気分で言った。

「手、動かして──壱次サン」

 ところが、絶対嫌がると思ったオッサンは「やったあ」とニッコリ笑ってまたゲーム(素材集め周回中)を始めるから、それでいいのかとこっちが聞き返す羽目になった。

「奏多の生まれ変わりやめたん? 自分の事田宮壱次って認めるんか」
「それでもいいよ……実はね。俺はトモに呼ばれるなら、オッサンでもクソデブでも何でもいいんだ。でもトモがそう言う度にちょっとだけ胸が痛むんだよ……多分、俺に身体をくれた田宮さんが嫌がってるんだと思う。だから……ありがとう」

「よーし言えた! スッキリ!」オッサンが両手をぐんと上げて伸びをした。それは、言いにくいことを言った後の──例えば僕が知らぬ間に人を傷つけていて、同じことをしないようにと教えてくれた後の──仕草と同じだった。

「………………かなた」

 へ? とオッサンが奏多のびっくり顔で振り返る。

「もう、奏多でええわ……オッサンは今日から奏多ってあだ名や」

 本当に? 

 オッサンの奏多がコントローラーを放り出して、もう一回名前を呼んでくれと僕にせがんだ。

「……もう一回……もう一回だけ」

──……なんやねん。必死の顔して。

「はよゲームやろうや……奏多」

 でも呼んでやってもオッサンの奏多は納得せず、うるさいって僕がブチ切れるまで、何回も何回もしつこく、名前を呼ばせ続けた。

**

「トモ! ちょっと来て!」

 連日の早起きのせいで眠い目をこすりながら大学の門をくぐるなり、待ちかまえていた沖田に腕を引かれた。

「何?」
「何、じゃねえって! さっきのオッサン何? バイバイ~トモ~♡ って」
「あ」

 振り返ると、オッサンの奏多が駅への角を曲がるところだった。

 さっきまで僕はオッサンの奏多と(もう面倒だから奏多で統一するな)一緒に居た。バイトが終わる時間と登校する時間が重なりそうだったからなんとなく気になって見に行ったら、ビルの裏を覗いた瞬間に見つかってしまったのだ。奏多は、揃いの繋ぎを着た談笑の輪の、中心に居た。

『トモ!』

 一斉に僕を見るたくさんの瞳。それは大学でも、よくあることだった。いつでも奏多はたくさんの友達の中に居て、なのに僕をすぐに見つけてくれた。

 着替えを終えた奏多が久しぶりに気に入りのカフェで珈琲を飲みたいというからおごってやって、さらに大学まで送るとしつこいからそのままここまで来て──。

──……ってのを、沖田に説明する……?

 いや、せんやろ。たちまち僕までヤバイ人になる。

「なあ、なんだよアレ……」

 顔面蒼白になっている沖田を見ずに「親戚」とボソっと言うと「嘘だ!」と秒で返された。

「トモは嘘つくときすぐ分かる。全然人の顔見ないもんな!」
「えっ マジで?」
「マジで? じゃねえよ……なあ、まさか噂のパパ活とかやってないよな?」
「ぱぱかつ……何それ」
「お茶とか飯付き合う代わりにに金もらったりするやつだよ……」
「いや、おごったの僕だし」
「ハア?」

 顎が抜けそうになっている沖田が可笑しくて笑いそうになったけど、ぐっと耐えた。すっかりオッサン奏多に慣れてしまったせいで、こんないい奴を戸惑わせてしまって申し訳無い。

「……まあ、別に怪しい人ちゃうよ。年は離れてるけど」

 僕は何も後ろ暗いことは無い。
 やってることは、人助けなわけだから──。

 ところが、沖田の顔色が優れない。

「来い、トモ……」
「え、ちょっと何、大学始まるで……」
「そんな場合じゃないだろ……!」

 痛いって、そんなに腕引っ張らんといてや。

 今日は授業二コマしかないから、終わったらいっぱいゲームしようって、奏多と約束してるのに。

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