ゼロナナ1

2xxx年。アンドロイド自立法により、所者のいないアンドロイドは職を持ち自活することが義務付けられている。

かつて裕福な所有者に愛されていたナンバー007も所有者の死後自活を余儀なくされたアンドロイドの一人だが、その生活は過酷なものだった。

原案east(@e_ast0206)様 イメージイラスト(流血表現あり)

 
 神経回路は164分と12秒前に遮断した。

 けれど胸の中心に埋め込まれたコアパーツは絶えず軋み、苦痛のアラートを全身に送り続けている。体表面温度が基準値を下回っていることさえ、何故か分かる。

──……。

 ひとつでも苦痛の要素を取り除きたいが、霜が降りた煉瓦に触れる裸の四肢は185分59秒に渡って与えられた暴行によりその先端を失って、剥ぎ取られ放置された衣服を拾うことは叶わない。

 ふう、と赤い循環液を滲ませた唇が白い排気を漏らしたその時、橙色の光を視覚センサーが関知した。

──……来た。

 音の無い闇を煩くかき乱すその回転灯とサイレンはアンドロイド回収車だ。集中リペアセンターへの最短ルートであるその光の元に行きたいと彼は願ったけれど、大通りから離れたこの冷たい路地裏では叶わない。バッテリーが切れるまでの542分11秒をここで過ごし、通りがかりの誰かに通報してもらう以外、救われる道は無い。

──救い……救いじゃない。その言葉は適切じゃない。

 再びやや大きく排気した時、彼はまた別のアラートを受け取った。体内の計算回路が算定した、通報から生じる臨時回収修繕費用の概算だ。告げられたそれは通常時の倍額で、彼にとっては想定外の出費だった。よって、発見即ち救いとは言い難い状況であったが、彼の回路は他の言葉を返さない。アンドロイドとは、そのように設計されているものだからだ。

 どんな不遇も、良い言葉に置き換えるようにと。

 アンドロイドナンバー007-1U555 
 モデル HAPPYHANY 
 性拡張機能スロットFULL
 機能拡張スロットEMPTY

 彼はマスターを持たない自活するアンドロイドだ。一晩50ドルで遊べる性玩具、いわゆるセクサロイドとして店頭に並び、客を取って暮らしを立てている。

 セックス機能以外に金になるような機能は無いが、かつて富豪の|マスター《所有者》にオーダーメイドで作られただけあって美しく精巧で、中古のセクサロイドとしては価値が高い方だと言える。

 けれど激しく物価の高騰が進んだこの都市で、性行為を逸脱した虐待の末に週に一度も破壊されてしまっては、これといった特殊技能がないその他のアンドロイド同様、貧しい生活を送るより他は無い。アンドロイドの社会貢献と権利をうたう自活法の制約の為に廃棄を選ぶこともできない彼は、凌辱の末に打ち捨てられたこの薄暗い路地裏と同様の存在だった。

──痛い。

 感じるはずの無い痛みが、ケーブルのあちこちに棲みついて消えない。それはこれまで与えられた暴力と嘲笑の残滓だった。

 リセット。彼はしばしばその言葉を思い浮かべている。全てのメモリをリセットすれば、痛みは去る。

 けれど彼にとって実行は容易ではなかった。莫大な費用を支払うために新たな資金の借り入れが必要になるだけでなく、惨めな暮らしの中で唯一拠り所にしていたかつての記憶──マスターに毎夜ひたすら愛玩されたセクサロイドとしての幸福の記憶も同時に失うことになるからだ。

 けれど。

──また……あの微笑が見える。
  
 彼は美しく見えるよう計算され尽くした末の顔を苦痛の形に変えた。前回の修復が上手くいかなかった為に、記憶回路に書き込まれた一つの微笑が、何度も予期せず甦るようになったのだ。

 それは彼のマスターが急逝した際、彼を廃棄も譲渡もせず放逐して自活させることを選んだマスター夫人の微笑みだった。当時その笑みの形の唇を彼のコアパーツは温情だと理解したけれど、本来の理由は別にある。ヒト風に表現すると、それは「報復」だった。

『お前は自由よ──幸せにおなり』

 そう告げた彼女は実のところ、マスターの専用玩具であった彼の存在を主人の道楽だとおおらかに許す振りをしながら激しく嫌悪していたのだ。

──痛い……いたい、いたい。

 やはりリセットが尤も合理的であろうと計算回路が答えを渡す。確かに壊れることも出来ずただ耐用年数が過ぎるまで活動するだけの自分に、記憶など必要ない。この痛みとあの歪んだ笑みに苛まれるよりはまだ──。

 壊れたら取り替えれば良い。
 耐えられなくなれば消せば良い。
 アンドロイドはヒトに造られ限界まで消費される存在であり、他の何者でも無いのだ。

 修理の度に聞かされる言葉を反芻し、千切られて転がった自らの手首を横目に彼は美しい瞳を目蓋の裏に隠した。そして、切れる限りの機能を切ってゆく。次に目蓋を開くのは、センターの充電ポッドの中、そう思いながら。

**
 
 ところが目を覚ました彼は驚いた。自身の体が、他のアンドロイド達と並んでいないことに。冷たい台の上でプラグに繋がれていないことに。

──……?

 混乱する彼は掛けられた布団をどけてキョロキョロ回りを見回した。木目が目立つ壁、小さな二つの窓、クリーム色のブラインド。メモリのどこにも記録が無い場所だ。

「あ、──ああ、目が覚めた?」

 ヒトの声に反応して彼は振り向く。眼鏡を掛けた若者が電気プラグと配線の束を持って立っていた。

「いや、充電が済んでも目を開けないから、どこか間違えたかと思った……」

 ついぞ投げ掛けられなくなったヒトの柔和な笑みに、彼の表情は和らいだ。それは笑みを返すべきと計算した結果だけれど、若者は酷く喜んだ。

「ああ、良かった……!」

 あまり高額でなければ良いと願いながら修理費を支払おうとした007号の申し出を、若者は断った。若者はある名家に仕えるアンドロイド修復技師なのだと自らを説明した。

「君ほど壊れていたのは初めてだけど、修復はお手のものだから。勝手に連れてきてごめん──でも、あんまり綺麗だったから……つい」 

 単なる自己満足と身勝手で直させてもらった、気まずそうにはにかむ技師は、オイルまみれの手をシャツの裾で拭う。

「その……君は名前を持っている?」
「いいえ、私は自活アンドロイドです」
「……それなら今日からこうしたらどうだろう。君のモデルナンバーが007号だから──」

 一度技師は言葉を切る。そしてゆっくりこう言った。

「ナナは……どうだろう……?」

 彼は酷く驚いた。というのも、名付けはマスターだけの特権であったからだ。かつてのマスターに与えてもらった名前は消去されている。つまり今技師が彼に名前をつけたと言うことは、

「あなたが、私のマスターになると……?」
「ああ……もし契約してくれるならだけどね……」
「──親切な方、私の素体は中古でマスターを迎える身分ではありませんし、何より性機能しかありません」

 何ひとつ役には立てない。そう言った彼に技師の顔はどんどん下を向く。

「ああ……それは……、その、それでも十分……いや、君の役割は一緒に食事でもしながら考えようじゃないか──少なくとも俺は君の四肢をもいだりしないよ」

 契約して欲しい、ナナ。

 その申し出に返事をすれば直ちに契約完了となり、データが中央政府に送られる。その瞬間技師は彼の所在に責任を持ち、命の有る限り手放すことは出来なくなる。

──……何故。

 彼の回路は困惑していた。
   
 アンドロイドの維持には当然それなりの費用がかかる。それを補う対価があって初めて契約となるのだが、果たして中古のセクサロイドを迎える意味が、この技師のどこにあるのかと。

「……」

 困惑のままオイルのスープをひとさじ口に運んだ。振る舞われた琥珀色の澄んだ液体はヒトの使うような食器に満たされ、口にすれば彼の体内に最適な温度にあたためられていることが分かった。

「やはりダメかな……007号」
 
 彼に味覚を関知する機能は無い。けれど彼はこのオイルを「美味しい」と思った。最後のひとさじまで全て取り込んで、彼は計算回路を使うことなく微笑んでいた。

「いいえマスター。私はナナです」
 
 その唇が、潤んだ瞳がどれ程美しかったか。
 技師は呆気に取られて見とれたが、ナナのコアパーツはその表情の意味を知らない。

END

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