信じられない。どうなってるの。
私、末黒 幸はある朝、姿見の前に立ち尽くしていた。これは、昨日電車で痴漢されながらも、涼しい顔でスマホを見ていた藤澤君そのものではないか。藤澤君と言えば、お金持ちの一人息子で、桁違いの美少年で、私なんて視界に入ることすら一生無い、異世界の住人。藤澤くんの部屋らしいここは、私の部屋の三倍は広い。個人の部屋にL字型のソファに足置きまでついてるなんて、どういうことだ。カーテンじゃなくて、ウッディーなブラインドだし。
とりあえずその美しい顔をしげしげと眺めた。これだけで何時間でも過ごせそうだ。なんて素晴らしい夢なんだ。できるだけ長くこの夢を見ていたい。
私はこの夢を満喫することにした。パジャマを脱ぎ捨てて、前、後ろ、と見た。全部が繊細にできている。もちろん胸はぺったんこだけれど、小さくて桜色の乳首がとんでもなく色っぽく見えた。細い腰骨に引っ掛かったボクサーパンツも脱ごうかと一瞬思ったけど、いくら夢でもそこまで藤澤くんを汚すのは申し訳ないと思って、耐えた。
裸体を堪能したあと、制服に着替えてみた。どうしてもネクタイがゆるくなって全体的にだらしない。藤澤くんはいつでもきっちり制服を着て、背筋をぴんと伸ばしている。
-まあ、仕方無いか、中身は私なんだから。
次に、大きな家をくまなく探検した。誰もいないところが夢らしい。冷蔵庫にはびっしりお総菜がつまっていた。ちょっとつまみ食いしたら、信じられないぐらいおいしかった。タッパーを拝借して詰め合わせると、豪華弁当があっという間に完成した。ちひろとさやかにも食べさせてあげたくて、たくさん用意した。
さあ、いよいよ外に出よう。藤澤くんのスマホで地図を調べながら学校へ急ぐ。裸を見すぎて遅刻寸前だ。しかし良くできた夢だ。何もかもが本物みたい。ホームに滑り込んでくる電車も、人混みも。……これ、夢だよね?
電車に乗って、しばらくしたころ、違和感に気がついた。誰かがお尻に触っている。そういえば、この前も痴漢されていた。藤澤くんは何てことない、という顔をしていたから慣れっこなのかもしれない。けど、私にとっては人生初の痴漢だ。恐怖で体が硬直してしまう。気持ち悪い、気持ち悪すぎる。指がとんでもないところを押してくる。やめて、と言いたいけど、怖くて声がでない。手が震えて、涙が出てきた。誰か、助けて。助けて。
「今日は、いつもと違うね、ネクタイも緩んでるし。震えたりして、かわいすぎるよ」耳元で声がした。「もう我慢できない。降りよう」ちょうど駅に着いて開いた扉の方へ、手を強く引かれた。
「えっ、え……あの」私は無駄な抵抗をした。けれど藤澤くんの筋力では、重めの荷物ぐらいの抵抗しかできない。もう、降ろされてしまう!……というところで私の腰を誰かが電車側に引っ張った。お陰で痴漢だけが出ていき、私は引き続き電車に残れた。
「葵衣、大丈夫?」神の手は、同じクラスの佐々くんのものだった。佐々くんは体が大きくて、誰にでも優しいふんわりイケメンなので、女子に相当な人気があった。佐々くんの犬みたいな綺麗な瞳に見つめられて、私の頬は紅潮した。
そして、ほっとして、泣き出してしまった。佐々くんがびっくりしておろおろする。「葵衣、泣かないで……今日なんかいつもと違うのって、俺のせいかな。昨日はごめんな、俺……葵衣は悪くないのに」どうやら、二人の間には何かがあったらしい。私はそんなこと知らないので、ぶんぶん頭を振って否定した。佐々くんが遠慮がちに抱き締めてきた。お父さんを除いた、男に人生初ハグ。しかも、相手は佐々くん。私の心拍数は150を突破せんばかりの勢いでバクバクいっていた。
こんなのおかしい。これ、ひょっとして夢じゃないんじゃない?
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