Falling Down

人間、二十年も生きれば大抵、自分がどういう人間か知っている。いちいち深く考えず、ふわっと生きてる人だって、得手不得手ぐらいは分かっているだろう。
 
 僕は昨日、二十歳になった。
 なったんだけど、祝ってくれたのは僕のスマートフォンだけで、それでふと思ったわけだ。
 ああ、ゴミみたいな人間だな、って。
 特段、他人に迷惑を掛けることはしていない。
 かといって、役立つこともしていない、というか、そういう能力がない。簡単なことさえできない。

 そう、例えば献血とか。僕の血には、献血に必要な成分が足りていない。あとは、電車で人に席を譲ること。これも出来ない。何故なら、恥ずかしいからだ。目の前に居る腹の突き出た女の人が、もしただふくよかなだけの人だったら? 目の前に居る老婆。もし彼女が、自分を足元のおぼつかぬ老婆と認識していなかったら? 「声を掛ける」まずその第一段階を考えるだけで心臓が破裂しそうなのに、譲って断られたら? ──そんなことをうじうじ考えているうちに、誰かが譲るか、僕かその人の降りるべき駅に着いてしまう。

 献血可能か検査するために使った針や道具がもったいなかった。
 譲るべき人に譲れなかったことが恥ずかしかった。
 
 何もできなかったくせに、かなりの時間そのことばかり気になって、なんなら翌日でも一か月後でもその「できなかった過去」を思い出す。そんなことばかりの二十年だった。

 僕はゴミだ。ゴミを祝う家族は無いし(本当に無い。母親は兄夫婦を溺愛し、父親は愛人を作って消えて、ATMになっている。兄は兄の家族と兄自身の友人関係を大事にしているので、僕とはいつが最後か分からぬくらい会っていない)当然、友達もいない。せっかく話し掛けられても「何を答えようか」迷う時間が長すぎたのだ。

 それで、ひとりで二十歳になった。
 二十年を経た、ゴミになった。

 といっても僕は、ランクで言えばBぐらいの大学に通えている。小・中・高は、「とんでもなく大人しい奴」の位置に居て、タチの良くない人や華やかな人に目を付けられる程の個性がなかったから、苛められた経験も無い。母は家賃と光熱費と学費をきちんと仕送りしてくれていて、ファミレスのキッチンバイトで小遣いを稼ぐことも出来ている。

 でも、ゴミだと思う。だって、僕一人がある日ぽいとゴミ箱に捨てられたって、「ああそうか」で終わるから。ああそうか、あいつ/あの子は死んだんだな、ところでどんな奴/子だっけ、で終わるから。

──……。

 今しがた自分が食べた、コンビニのおにぎりの包装に残った海苔の欠片。それを惜しいと思うことが嫌だ。スマートフォンを持っていることさえ嫌になる。今日の天気と、時刻表しか見ないのに。電話帳の登録先は、実家とバイト先だけなのに。

 僕は眠った。近いうちに、死のうと思って。
 出来るだけ人に迷惑が掛からぬような場所と、方法で。

──……まずは、物を捨てておこう……隣のおじいちゃんが死んだとき、家族の人たち、大変そうだったもんな。

 僕は自分の持ち物を全部捨てた後、最後に自分自身を捨てるのだ。イメージするのは、深い、暗い谷。崖から生えた木々が隠すその底には、細い川が流れている。
 ごつごつとした岩が突き出して、あれは、いつ、どこで、見たのだっけ──。

 翌朝、僕は大学へ行き、退学届を受け取った。事務員は特段興味が無さそうだったけど、便宜上尋ねられた理由には、「経済的な理由」と答えた。用紙と記入方法の紙はあっさり手渡され、特に救済に関する情報提供等は無かった。やはり、僕はゴミだ。ゴミ、ゴミ、ゴミ……。

「……」 

 廊下を歩いていたら、しゃがんで屈みこむ、大きな背中が目に入った。明るい髪の色を知っている。同じ学科で、学籍番号が隣の──廣岡雅史(ひろおかまさし)。僕と正反対で、とても価値がある人。

 そんな彼が、ゴミ箱を漁っていた。当然周りにもたくさん人が居て、彼の「ゴミ漁り」を手伝ったり、応援したり、慰めたり、アドバイスをしているようだ。何か、大事なものがその中にある可能性があるらしい。 

「見つかったらいいね」
「これで最後?」
「何色って、言ってたっけ?」

 廣岡はその質問に、「ありがとう」「そう、最期」「紺色」等と丁寧に答えている。「これ?」差し出されたものに──どうやら廣岡が失くしたものはボールペンらしい──に少し吊り気味の切れ長な視線をやって「違うなあ」と苦笑する。よくあんな顔が出来るものだ。だって、差し出されたボールペンは、赤だった。

「……」

 僕は、彼らの邪魔にならぬように通り過ぎる。一緒に手伝えたらいいのに。最後の最後に、廣岡の役に立つことが出来ればいいのに。そうしたら、ゴミとして死ぬ僕に、ひょっとしたら廣岡が「ありがとう」と言ってくれるかもしれない。僕の目をみて、「ありがとう」って。

『あ、あ、ありがと……』

 僕は、一度廣岡に助けられている。きっと廣岡は忘れてしまってるだろうけど、入学式の日、筆記用具を忘れた僕を察して、ボールペンを貸してくれたのだ。

『良かったら』

 それはインクの出が滑らかでとても書きやすく、軸の太さが絶妙に手に馴染み、深い紺色が月の無い夜みたいで綺麗で──。

──あ。

 きっと、廣岡が失くしたのはあのボールペンだ。大勢が静かに着席している中、どんどん進むオリエンテーションの最中に「筆記用具を忘れました」なんて言える訳無い僕を救ってくれたボールペン。あれを、廣岡は失くしたのだ。

 振り返れば、必死な廣岡の横顔が見えた。滑らかな額、思案に険しくなった眉間、真っ直ぐ筋の通った鼻梁、そして、唇、顎へと続くそのラインは、漫画のキャラクターのようだ。
 勿論、廣岡の役は主役。今は、ボールペン紛失イベントの真っ最中で、僕がそのボールペンを借りた場面は、きっとカットされている。

 無論これは現実で漫画ではないけれど、廣岡に僕は恩が有り、彼がとても困っているのに違いはない。「あった!」と見つかるエンドに、少しだけでも手を貸したい。死ぬ前に、一度で良いから廣岡の役に立ちたい。

 僕は、退学届の用紙を鞄に仕舞い、こっそり一人でボールペンを探し始めた。同じ学科だから、廣岡が使う教室やカフェ、食堂ぐらいなら分かる。実物を見ているのも強みだ。僕なら、明確なイメージを持って探せる。間違えても「これ?」なんて言いながら赤いボールペン、しかもプラスチック製のものなど渡しはしない。

──見つける、絶対見つける……。

 僕は、まず廣岡がいつも座る席のあたりから探索を始めた。廣岡だって探したと思うけど、大教室は傾斜がついているから転がって、どこかに入り込んだ可能性がある。
 
 廣岡は左利きで、だいたい右側にペンケースを置いてる。片付けの最中に話し掛けられても、彼は絶対無視しない。そしてケースに入れ忘れたまま席を立ち、その大きな身体の右肩にひっかけている、高価なアウトドアブランドのリュックサックがぶつかったら。

──こう飛んで、落ちて、そしたら、転がる方角は……。

 僕は必死で考えた。生まれて初めて、必死になった。

「……マジで……天才かよ」

 僕のカタカタ震える手からボールペンを受け取った廣岡が、しげしげとそれを眺めている。初めて正面に立った僕は、何だか夢を見ているようだ。

「お前、そうやって全部の教室で確かめてくれたのか……優しいにも程あるじゃん、えーと」
「……」

 廣岡は、僕の名前を思い出せずに困っていた。別にいい。覚えてなくていい。ただ、僕が盗んでしれっと返しに来たのだと思われなくて本当に良かった。ボールペンを汗だくになって見つけたその時、ふとよぎったのはその恐怖だったから。そっとペンケースに戻すこと。廣岡の目につくところに置いておくこと……色んなことを考えた。でも、最期だから。死ぬから。その勢いで、正面から渡すことにしたのだ。やれば出来るものだなと、僕は少し笑顔になった──らしい。

「あ! その顔で思い出した。お前、あれじゃん。入学式のオリエンテーションで、筆記用具忘れてたやつじゃん。早瀬(はやせ)、早瀬臨(はやせ のぞむ)」
「……え、あ、うん、あの時は、あ、」
「臨時の臨でのぞむって読むんだ、ってあの時思って……そういやそう書くな、って思ってさ、あ、御礼になんかオゴるわ。飯食った?」

──……え。

「昼飯。丁度昼だろ?」

 廣岡が、僕に笑いかけている。何が良い? って。

「法学部の、お高い所でもいいぜ。コレ、マジで大事にしてたからさ……」

 いくら死ぬと決めた僕でも、「廣岡と飯」の難易度は高すぎる。僕はいい、いいと後ずさりをするけど、長い腕が伸びて来て、僕の腕を掴んで離さない。

「行こ」 

──……。

「ヒロ、飯──」すれ違う友達に、「見つけてもらっちゃった」とボールペンをヒラヒラさせ、廣岡は僕をずるずる引き摺って行く。
 僕は振り払うことが出来ず、新設された法学部の教授御用達レストランで、一番いいランチをご馳走になった。
 柔らかな赤身の肉や、衣の薄いエビフライを食べながら、僕はこれを最後の晩餐にしようと心に決めた。
 もう、死ぬまで何も食べない。僕は「本日のスペシャル」を胃に詰め込んで逝く──。

──……。

 そして僕は、ちっとも気付いていなかった。

「早瀬……どうした。何、何か俺、やらかした?」

 食べながら、泣いている自分に。

 ひょっとして嫌だったか、肉が苦手なのか、他人と飯を食う自体無理なタイプか──廣岡は席を立ち、小さな僕に合わせて背を屈める。そして、「まだ使ってないから」とハンカチで僕の涙を拭ってくれた。違うんだ、ランチはとても美味しい、廣岡のせいじゃない。僕は、僕は。 

「あ……俺のこと、嫌い……だったか……?」 

──……!

 そんなことない、そんなことあるもんか。だって、席の場所を覚えてる。お気に入りの場所が空いてなかったらこっち、そこも空いてなかったらこっち……そのぐらい、見てた。ゴミのくせに見てたんだ。

「ちが……、幸せ、だなって、おもって……」

 キモいゴミだと思いながら、正直に言った。どうせ死ぬから、別にどう思われてもいい。僕は、一年の頃から廣岡のことをとても素敵だと思っていたと告白した。だから、ボールペンを頑張って見つけたし、それを渡せただけで充分だったのに、こうして食事まで出来たから、いっぱいいっぱいになってしまったのだと。

 廣岡が誰と付き合っているかよく分からないけど、恋人が居ない筈は無いし、仮にいなくても僕は男だし、万が一廣岡の性的嗜好が男女問わないタイプだったとしても、僕を選ばないことは分かっている。だけど、誤解されたまま死ぬのは嫌だった。

「マジで……」
「あ、あの……わす、れて下さい……好きになって、ごめんなさい」

 僕は逃げようとして立ち上がった。けれど、廣岡の大きな手のひらに両肩を掴まれ、再び席に座らされた。

「まだ、デザート来てないから……あと、付き合おっか。てゆうか、付き合ってよ。早瀬、可愛い」

 廣岡の口が発したその言葉。それを僕がぜんぶ理解出来たのは、デザートを夢遊病のように食べ、コーヒーを飲み終えた頃だった。廣岡は、正面の席で肘をつき、僕を見ていた。短い前髪の下、釣り目の筈の目尻を下げて、「マジで、可愛い」そう、何度も言っていた。

 僕は、暫く死なないことになった。でも、僕が一瞬思い描いた「新しい人生のはじまり」とは全く違う展開を見ることになった。
 廣岡は、廣岡は──僕が思っていたような人間では、無かったのだ。
 大学で見せている姿は、廣岡の表面。ほんの1ミリ程度の上っ面。
 そして、僕に見せるのが、廣岡の表面を作るために必要な「栄養」──彼自身がそう表現したから、間違いない。
 廣岡は、とんでもないサディストだった。

「あ、うあ……」
「痛い? 痛いよなあ……」
「う、う、うーーーっ」
「苦しいか、あ、熱いのか。そうだよなあ……そりゃ、熱いよなあ……」
 
 廣岡は、人が苦しむ様子に、性的な興奮を覚えるのだそうだ。かつ、それを喜ぶ人間……所謂マゾヒストを相手にするのは好まない。だから、大学内の人間とは付き合えない。僕が廣岡のことを見ていた割に、誰と付き合っているのか分からなかったのにはきちんと理由があったのだ。
 廣岡は、ゆきずりの、見知らぬ女や男を誘う。そして、釣れた人間に暴力を加えながら性行為を愉しんで、写真や動画で脅した上で、口止め料を渡す。そうやって、性欲を発散してきたそうだ。

「……助かったよ、いちいち面倒でさ……この間なんか、訴訟起こされそうになって親に叱られて散々……でも、もう心配いらないな。臨がいるから……」
「や、止め……それ、」

 僕は泣きながら、次の灼熱の一滴を避けようと細い身体をくねらせた。もう、服で隠れる場所は、身体中火傷だらけだ。普通、「そういう遊び」にはもっと温度が低くても溶けるろうそくを使うらしい。だけど、廣岡が使うのは本物の蝋燭だ。赤い蝋が僕にぼたりと落ちる度、絶叫する程痛い。廣岡は、僕がより怖がるように、落とす振りをして落とさなかったり、目隠しをしていつ落ちるか分からぬようにした。僕の縮み上がった性器を掴んで、そこに炎を近づけたりもした。

「嫌、嫌、嫌――――!」

 でも、僕がいくら叫んでも無駄だ。廣岡が住む広いマンションの一室は、その「プレイ」用に作り変えられている。カラオケルームやピアノのレッスン場よりも、遮音性能が高い仕様の壁材らしい。僕は毎日のようにそこへ連れ込まれ、身体を好き勝手に遊ばれた。

 天井からさかさまに釣られたこともあったし、背後からの性行為の最中、冷水に顔を沈められたこともあった。激しく咳き込むと、廣岡は愉悦をこらえ切れぬと言った風に笑い声をあげた。大学の誰も、廣岡のそんな笑い声を聞いたことがないだろう。

「サイコー……! 締まる……臨が苦しめば苦しむほど、俺は気持ちが良い……臨、臨、……!」

 二年間、僕が憧れ続けていた人間は、とんでもない奴だった。
 犯罪者で……悪魔だ。そして、悪魔に捕まってしまった僕はもうゴミじゃない。
 但し、奴隷でもない。奴隷は主人に逆らわないし、主人もまた、僕を奴隷にしたいわけじゃない。進んで痛めつけられたがる人間を、廣岡は好まない。

「あ、ああああ、痛い、痛いよ……! 止めてよ……!」

 だから、逃げ出そうとするなら、僕は我慢しなくちゃいけない。なのに、僕は泣かずに居られないし、抵抗せずにいられない。
 さすが、努力も何もできないゴミだ。こんな扱いを受けて尚、誰にも言えない。相談する相手が居ない。そして廣岡も、そのことを知っている。こんな関係になる前に、僕は相当の個人情報をぺらぺらしゃべってしまっていたから。言わなかったのは、死のうと思っていたことくらい。

──……あ、そうだ。死ぬんだった……退学届……。

 傷口に薬を塗りながら、僕は谷底のことを思い出した。まさか、こんなおまけがついてくると思わなかったけど。もういいだろう。

──……死のう。

 僕は、ゴミ以下になって死ぬことになった。傷だらけで恥ずかしいから、骨になるまで……なんなら骨も見つからない場所で死にたい。

「臨、今日、十九時な」
「……うん」

 いつにしようか、どこにしようか。

 再び死ぬ決意をしたからか、廣岡の責め苦は変わらなくとも、痛みや辛さは少し遠のいた。だって、死ぬときはもっと痛いんだ。あの尖った岩に頭が激突したら、こんなもんじゃない。安全ピンの先は細い。でもあの岩は、ギザギザしてた。あの岩は、あの岩は。

──……どこ。

「臨……なーんか、つまんねえな、」

 廣岡が、僕の喉奥まで突っ込んでいた性器を引き抜いた。反射で咳き込んだけど、廣岡は白けた顔をしている。そして、ぷいと筋肉質な背を向けて、素っ裸のまま部屋を出て行った。

──……飽きた、かな……。それならそれで、いいけど。

 どっちみち、死ぬけど。
 だけど、廣岡はすぐに戻って来た。手に、何かを持っている。

「これ、何だ?」
「……」

 それは、例のボールペンだった。僕が最後に地獄を見る羽目になった、ボールペン。だけど、鼻歌交じりで廣岡がキャップを外せば、少し知らないものになった。先端が、違う。丸っこかったアレではなく、細く長く、けれど先端部だけは少し屈曲した、なんともいえぬ形状をしていた。

「……俺が、これを大事にしてるのはさ、……」

 人形のような口角を上げ、廣岡が僕の小さな性器をつまみ上げる。そして、分かり切った手つきで扱き、勃起させた。

「ヨシヨシ、こっちは素直だな」

 廣岡は、ボールペン(だったもの)を左手でくるくる回転させた。そして、まさかと思う場所へ、その先端をあてがった。冷やりとした感触が、そこから背筋まで這い上がった。

「したこと無かったよな……ニョードー責め」
「……」 

 呆然としていると、プツリ、とその先端部が僕のそこに沈んだ。違和感、なんてものじゃない。僕は新しい痛みに絶叫し、廣岡は笑った。

「別に病院でも通すし? そんな叫ぶなよ……!」
「あ、あああ、痛い、痛いっ」
「……じゃ、これは?」

 廣岡が、カチ、とボールペンをノックした。途端、真っ白で細かな火花が、眼前に散る。

「ア──……──ッ……!!!」

 声にならない悲鳴があがる。手の、脚の、指先が痺れ、その部分には、じりじり焼かれ続けるような痛みがある。廣岡は、断続的にカチ、カチ、とボールペン状のそれをノックした。

「デンリュー責め。いいなあ、いい……臨の悲鳴……イきそ、俺」
「あ、あああああ! あああ!」

 僕は、叫びながらのたうち回る。口の端から何かがあふれ出た。血ではない。泡だ。

「臨が悪いんだからな、俺を、退屈させるから……はじめはそんなんじゃなかったろ? なのに最近はどうもぼうっとして……刺激に慣れちゃう程させてくれた礼は言わなきゃいけないけどな! ごめんな! しばらくお前、便所の度に死ぬわ……!」

 ハハ! と廣岡は笑った。毎日消毒しろよって。
 
 僕は、これから何度も死ぬのか。
 一度で済むと思ったのに。何度も。
 
──……。

 涙がぼろぼろ出た。僕は、ただゴミ箱に入ろうとしただけなのに。入る前に、親切を親切で返そうとしただけなのに。どうして、どうして。

「見つけてくれて、本当にありがとうな……コレ見てたら、心が落ち着くんだ……痛めつけた奴らの……泣き顔が、浮かんでさあ……」

 涙で歪んだ視界の廣岡は、ニッコリ笑っている。

「そういえば、お前にこれ貸してやったのも、何か予感してたのかもな……臨が、俺のものに、なるって……」

 廣岡が笑う度、何もなかった人生で、唯一大事にしていた暖かな思い出が、腐っていく。遠い憧れ。教室を這いつくばって探し、アレを見つけた時の喜び。名前を憶えていてくれたこと。向かい合って、座って食事をしたこと。初めて知った幸福に流れた涙を、優しく拭ってくれたこと──全てが腐臭を放ち、細胞が終わりを告げるその時のように、溶けてゆく。
 その後にたかるのは、大量の蛆だ。もっと、もっと湧いてくれ。それで、綺麗に分解してくれないか。何も、知らなかった僕に。 ただのゴミの僕に、戻して欲しい。 

「あ、バッテリー切れた」

 小さいのが難だと言いながら、廣岡がまた背を向ける。僕の視線の先に、放り出された腐ったボールペンがある。僕は無意識でそれを手に取る。最初見せられた時銀色だった先端は、僕の血にまみれている。カチ、カチ、と何となくノックした僕は、次にゆらりと、起き上っていた。

「どこだっけ、ジューデンキ」

 ぶつくさ言いつつ、引き出しを探る廣岡に忍び寄る。廣岡は、背後の僕に気付かない。きっと、ゴミだからだろう。そうすべくして、僕は両手に握った、ボールペンを振り上げる。そして、思い切り振り下ろした。特に、どこを狙ったわけではない。廣岡は大きいから、上げて下げれば、どこかに刺さる。

「……?」

 最初、廣岡は何があったか分からぬようだった。不思議そうにペンが刺さった右肩の辺りを見て、流れ出る血に触れて首を傾げていた。その三秒後、僕を認め──憤怒の表情を見せた。これも、見たことがない顔だ。大学の誰も、──僕さえも。

「臨……何、してくれてんだ貴様……ゴミの分際で!」

 ああ、そうだよ。ゴミだ。

「ぼろぼろ泣きやがって。何だ、復讐か? お前みたいのが普通に大事にされると思ってたのか? お前には俺がお似合いなんだよ……! おとなしく死んでろ」

 その引き出しは、廣岡の「責め道具」が入った場所らしかった。彼が選んだのは、とても単純なものだった。釘と、金槌。僕の唯一の武器だったボールペンは、廣岡の肩に刺さったままだ。丸腰になった僕には、逃げることなんか出来ない、出来ない、出来ない……のか?

 そんなことない。
 僕はいつだって、逃げられた。
 大けがしてるけど。今だって、動けないことはない。

「うあああああ!」

 僕は大声を上げ、手に触れたそれを掴む。ダイニングチェアだ。悪くない。廣岡に向かって投げれば、引き締まった腹にぶち当たる。

「クッソヤロ……殺すぞ……!」

 椅子を蹴り倒して向かってくる廣岡から、後ずさりしながら新しい武器を視線で探す。けれど、何もない。廣岡の家はとても片付いている。
 だから、僕を捕まえる為に伸びてきた腕に、思い切り噛みついた。すかさず蹴りが飛んできて、みぞおちを蹴られる。散々いたぶられた下腹部がじくじく痛みを訴えてきたけど、蹲っている暇は無い。手を突いて立ち上がり、ゴツンと頭がぶつかった──それが、丁度、本当に丁度、廣岡の顎だった。ぐらりと揺れて倒れこんだ廣岡を、僕はこぶしで殴りつけた。何度も、何度も殴った。僕の細腕の、小さな拳では、殴る手だって痛いけど。
 もうその時の僕はハッキリと分かっていた。

 僕は、ゴミだ。
 僕が死んでも、誰も悲しまない。すぐ忘れる。
 だけど、僕は人間だ。だから。

──死ぬ時も場所も、自分で決める。人に、殺されたくはない。

 それを知らないこいつは、死ぬべきだ。僕が逃げるだけでは、足りない。新しい被害者が出る。

 そう決めると、廣岡の家は便利だった。
 身体を拘束するものには事欠かなかったし、意識を失わせる薬もあった。
 車も持っているし、ご丁寧に、台車まである。何に使ったのか、使うつもりだったのか。

 僕は廣岡を大きな毛布でくるみ、ふうふう言いながら台車に、そして車の後部座席に乗せた。車を運転するのは嫌いじゃない。偶然走った道の景色が良かったり、なんとなく皆に着いて行ったら素敵な場所に着いたりしたから。

──あ……。

 そうだ。思い出した。あの暗い谷川は、そうやって見つけた一か所だった。温泉地に行った帰りに国道に乗り損ね、迷い込んだ川沿いの一車線。突然対向車が来て肝が冷えたものだった。あそこに行こう。僕も行きたかったから、丁度良い。

 あっちだったかこっちだったか。一度迷っただけの場所に、記憶を探りながらたどり着いたのは、もう深夜だった。巨大なV字型をしたマンションが遥か上から見下ろしているが、ライトもつけぬ黒い車だ。目立つことは無いだろう。

 僕は、廣岡を包んだ塊をガードレールの力を使って持ち上げ、後は彼の体重に任せて奈落に向けて押した。
 遠い記憶の向こうの、尖った岩を思いながら。

──落ちろ、落ちろ、落ち……ろ……。

 一心に押し出す動きをしていた筋肉が、ふと力を必要としなくなる。廣岡は僕の手から離れ、上等なグレーの毛布を僕の手に残し、下へ下へと落ちて行った。一瞬、廣岡の肩と、そこでキラリと光る濃紺が見えた気がしたけれど、気のせいかもしれない。だって、そこは暗い。
 何も見えやしない。

 ごう、と強い風が吹く。枝葉をざわざわ揺らすのは、突風なのか、廣岡なのか、僕には分からない。ドスンと響いた鈍い音だけは彼のものだと、分かったけれど。

 それから僕は、元来た道をゆっくり戻り、廣岡の車をガレージに戻した。台車と毛布はそのまま荷台に置いておき、僕はそのまま自分の家に戻る。
 歩く度に股間が痛み、前かがみのとぼとぼ歩きになって二時間もかかったけど、さすが僕だ。
 その間にすれ違った誰ひとりとして、僕に視線を向ける人は居なかった。

 シャワーを浴びる余力は無く、物理的な痛みに効くかどうか分からぬままに頭痛薬を飲んで、目を閉じる。

 さて、僕はどうしようか?
 だって、とっておきの場所は廣岡に取られてしまった。

──ああ……僕も。

 落ちて行きたい。あの、暗い暗い地の底へ。早く、逝きたい。

 

 

 

 (了)

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