夢に囚われる-4(最終話)

「みのり……みのり! 大丈夫だよ、こっちは現実だ!」

 絶叫と共に目覚めた僕は、まだここがどこか把握できない。身体中が熱くて、それが炎のせいなのかなんなのか分からない。

 そうだ、火事だ。結局原因は何だったのろう。家全部が跡形も無く燃え尽きて隣のアパートまで半分燃えてしまう程の、凄まじい炎だった。でも幼かった僕は、詳しい事情を聞くこと無く生きて来た。出来る限り僕からその記憶を遠ざけようとした、周りの人達の気遣いだったのだと思う。

「……今日はおばちゃんたちが出て来たよ……せーいち、どうして火事になったか、知ってる……?」

 自分の吐息が熱い。もしかして熱があるのかもしれない。

「今度はおばちゃんたちか……。確か、天ぷら油が燃えたんじゃなかったかな……」

「天ぷら……そうだ、そうだった……おばちゃんは天ぷらを作ってたんだ……」

 菜箸を持つ、おばちゃんの丸い背中を思い出す。料理上手なおばちゃんは、火元にはとりわけ注意していたし、僕にも絶対に火を使うなと言っていた。どうして、目を離したりしたんだろう。

──あれ……?

「誠一……どうして……」

 僕は尋ねかけて、背筋が凍りつくような寒気に襲われた。

「何? みのり」

 江田が、どうしてあの日の夕食を、知っているんだろう……?

「みのり?」

 反射的に、頬に触れた彼の手を払ってしまった。

「触るなって、こと……?」

「あ、違う……そうじゃなくって……」焦った僕は、つい口を滑らせた。悪魔に触られた感触が残っていた、そう言ってしまったのだ。

「悪魔に触られる? ただ近くにいるだけって言ってなかった?」

 歪む彼の眉に、毛羽立つ空気に、頬が一層熱く、心臓がドキドキと強く早く打ち始める。

「さ、最近は……触って来るように……なってて、それで……夢とごっちゃに」

 ちら、と見上げた江田の表情は、見たことも無いように厳しいものになっていた。

「俺が、気味悪い悪魔だって?」

「……ち、違うよ……」

 弱々しく否定する僕を、江田は睨みつける。目のふちが赤く染まってゆくのは、悲しみだろうか、それとも、怒りだろうか。

「違わないだろ……! だって、払いのけたじゃないか!」

「だから、それは混乱して……誠一は、僕の命の恩人……」

 強い語気に圧されて目が回りそうだ。やっぱり、相当具合が悪い。

「誠一……僕、熱があるかも……」

 江田は額に、手ではなく自分の額をくっつけた。

「ああ、本当だ……すごく、熱い……」

 そしておもむろに、抱きしめて唇を寄せて来た。僕はそれを拒めない。有無を言わせない圧を感じていた。

「ん……」

 二度三度と角度を変えながら重ねたあと、逃げないのか、と江田は言った。

「もしかして、俺が命の恩人だから? 恩返し?」

 意地悪く尋ねられても、なんとも言えない。ただ僕は、ひたすら混乱していた。

「分からない……何も、分からないよ……」

 泣き出してしまった僕の傍で、音を立てて江田が立ち上がる。大きい。江田は、こんなに大きかったのか。 

「もう限界だ……」

 言うなり、僕の両肩を掴み首元に顔をうずめてきた。熱く脈をうつ首筋に唇が触れ、鎖骨に歯を立てられる。こんなに強引な彼を、僕は知らない。

「んっ……あっ……」

 痛いようなくすぐったいような愛撫にたまらなくなって彼の胸に手を伸ばすけれど、押し返すことができない。どうしよう、どうしよう、僕は夢と同じくらいうろたえて、同時に喉が詰まるような悲しみを感じていた。それは、とても大事だったものが失われようとする悲しみだ。僕はいつでも突然失って来たけれど、

今回は違う。その現場に居合わせているのだ。

「抱くよ、みのり」

 まだ付き合うとも何とも言っていないのに、江田は僕のパジャマの下から節のはっきりした指をもぐり込ませて来る。胸の尖りを突かれて、びくりと下半身が疼く。それが敏くばれてしまって、ゆっくり撫でるようにそこを愛撫された。恥ずかしいという言葉で拒否を伝えるけれど、江田の返事は「かわいいよ」だった。

「みのり……夢で悪魔に触られるなんて……欲求不満だったんじゃないかな。……ほら下ももう固くなってきたよ。分かる?」

 太ももがそこをゆっくり圧迫して上に下に擦って、僕自身の変化を知らせた。

「ちが、よっきゅう、ふまんじゃ……」

「気持ち良くなることは、悪い事じゃないよ……みのりだって、俺のことを好きなはずだよ。だって眠ってる間何回も呼んでた……誠一、誠一って」

──……え。

 裸にした僕の肌にうっとりしたように唇を這わせる江田を、じっと見つめる。うなされている僕を、放っていたのか。

「起こして、くれなかったの……」

 でも何を言おうと、江田は夜な夜な淫らな夢に晒されて、とうとう悪魔の手で達してしまった、敏感な身体だけに関心を向けている。

「こんなにして、かわいいな。ほら、もう先が濡れてるよ」

「……誠一……どうして」

「隠さないで、もっとちゃんと見せて」

 僕は泣き顔を枕に埋めて首を振る。下半身から、じゅくじゅくと濡れた音がする。

「みのり、イっちゃえよ。そしたら悪魔が出てこなくなるんじゃないか?」

「……ちがう、それは、かんけいな、あ、ん、……」

 与えられる快感。

 僕は、それに覚えがある。同じだったから。何もかもまるで、同じだったから。

 熱の苦痛と、心の痛みの区別がつかない。

「かわいい、かわいい、俺だけのみのり……」

 江田が僕の心と真逆の反応を見せるそれを、美味しそうに食べている。その行為に僕の別の部分が疼き出す。こっちにも刺激が欲しいと、知ったように騒ぎ出す。

 僕は心と体が離れてゆくのを感じながら、次の夢で悪夢が終わるような気がしていた。そして、今度出会うのが誰かも分かっていた。

 もっと深く肌を合わせるために、江田が衣服を脱いだ。彼の身体には、両親から与えられた虐待の古い痕が無数にある。そして、その中にはひときわ酷いケロイド状の火傷の跡もある。僕は痛々しいその身体に、新しい青紫のアザを見つけた。逞しい肩についたそれは、綺麗な半円形だ。僕は叫び出してしまわないように、自分の拳を強く噛む。

「んんっ──っ!」

 僕は、江田の雄に貫かれる。揺さぶられるたびに、頭がヘッドボードにごつごつとぶつかる。

「……ああ、みのりが絡みついて来るよ」

 痛くて辛くてたまらない。この感覚も、知っている。僕は耐えきれず「痛い」「やめて」と口にした。江田は、そうなのか、と性急だった抽送を弱めた。じわじわと出入りする熱の塊の先端が、僕の内部に潜む知らない部分を刺激した。

「……っ」

 反応して震えた足先を、江田は見逃さない。

「ここ? ここが気持ちいい? そうか、結構入り口なんだな。奥かと思ってたよ……ごめんね」

 僕は切れるほど唇を噛み締めて、自分の体と江田が満足するのをひたすら待つ。そしてそのまま、夢の中へ落ちて行く。古城のあの部屋で、僕はやはりベッドに留めつけられていた。手の戒めが、縄から金属の手錠に変わっている。ベッドの脇に悪魔はいない。その代わりに会えるだろうなと持っていたその人が、浴衣姿で真っすぐ立っていた。

『みのり君』

「……さほ、ちゃん、会えたね……久しぶり……」

 かさついた言葉の途中で、視界が早くも過去へと巻き戻る。それは微笑む彼女の遺影と棺を前にしたパイプ椅子に、肩を落とした僕が座りこんでいるその時だった。

『みのり』

 白い花を抱えた江田がやって来る。僕が着替える気力が無かった喪服にきっちり身を包み、痛ましい表情を浮かべていた。さすがに一昨年のことだから覚えている。僕がその胸に縋りついて泣いている時、彼のシャツから漂ってきた清潔な香りも、ぴんとしたジャケットの感触もまだ鮮明だ。江田はひとしきり僕を慰めて励まし、早く犯人が捕まって欲しいと言った。

「綺麗なお花をありがとう。喜ぶわ」江田から花束を受け取った彼女のご両親が涙を浮かべてうっとりと花を眺めるのを、手ぶらで普段着だった僕は、恥じ入りながら見守っていた。

「牡丹の花ね」

「その花が、似合うと思って」

 お母さんが目元を拭い、僕はその時、やっぱり江田はさすがだなと思った。何故なら彼女はあの夜、江田が持って来た花と同じ柄の浴衣を着ていたからだ。髪にも同じ花の、大きな髪飾りをつけていた。

けれど肝心なことを忘れていた。自分がその日の昼に江田と昼食を一緒に食べたからごっちゃになっていたけれど、江田は休日出勤になったとかで、花火大会には来なかった。つまり、浴衣姿の彼女を見ていない。

勿論、江田がその花を選んだのは偶然だと言ってしまえばそれまでだ。ころころよく笑う彼女と丸っこい牡丹は良く似合う。

 でも今の僕の目を通すとそれは、偶然ではないと教えていた。

「さほ、ちゃん……」

 再びその名前を呼んだ時、僕はベッドの上に戻っていた。さほちゃんが、まだ傍らに立っていた。そして手錠も尚しっかりとそこにあり、僕を繋ぎとめて外れない。

「鍵を……持ってる?」夢に出てきてくれた懐かしい人は、いつも僕を助けてくれたから尋ねてみた。でも、

 彼女はそばかすの浮いた丸い顔を左右に振る。

『ごめん、持ってないんだ。どこかで落としてしまったみたい』

「……落とした、鍵を……」

『どこにもないの。持っていたはずなのに』

「おかしいな……持ってたよ、さほちゃんは、鍵を……」

 夢と、過去の記憶が絡まっている。僕は彼女の遺品として、ご当地キャラのキーホルダーを譲り受けていた。痛々しい黒ずんだ汚れがついた小さな巾着に、きちんと鍵にくっついて入っていたものだ。お揃いで買った、特に高いものではないそれは、今は僕の手元に無い。大事に箱に入れて片付けていたはずなのに、引っ越しの時に失くしてしまったのだ。

──……失くしたんじゃ、ない……? 盗まれた……?

 突然、頭の中で花火が開くように、あの日彼女が家に帰らなかった理由が分かった気がした。

 彼女の家はあの時、誰もいなかった。彼女が家に帰らなかったらしいということが分かったのも、花火大会に連れ立って行って遅れて帰宅した両親と妹が門灯も含めどこもかしこも真っ暗だった家の電気を点けたからだ。もしかして彼女は鍵が無くて家に入ることができなかったのではないか。だから、仕方なく家人の帰宅を待っていた。彼女の家は古風なところがあって、携帯電話等の連絡手段を持たされていなかったから。

 そこに、誰かが通りかかった。

──……良く知ってる誰かが……。

 それで、「どうかした?」と声を掛けたなら。

その妄想の中で、彼女に声を掛ける人物が、僕には一人しか思いつかない。彼女の鍵を奪う機会があって、完全に彼女が信じていて、かつ、彼女のことをひそかに邪魔に思っていた人物。

「殺したのは、誠一」

 証拠は無い。でもそうだった。おじちゃんもおばちゃんも、きっとそうだった。

『見ただろ』

 ゆうちゃん先生の声が甦る。僕が好きだった先生。江田と遊んでいても、ゆうちゃん先生が庭に見えたら走って駆け寄ってしまう程好きだった先生。僕は、彼について何を見たのだろう。見たのに忘れているものは──。

──……。

「残念、行っちゃった」そう言う前に江田が金網を踏んだ足、その足元に、何かがあった。

「──……あ……!」

 ちらっと、ほんの一瞬、江田のスニーカーの裏に見えたものがある。見間違え。そう言われたらそうだろうと思うぐらい一瞬の出来事。あれは、あの、小さい肌色をしたものは。

「指、だ──」

 空間を切り裂いて彼女が悲鳴を上げた。はっとして顔を上げると、悪魔が彼女に向かって鎌を振り上げていた。

「やめろ、誠一!」叫びながら手を伸ばす。「そんなことしたって、僕は、お前のものには──」

 鎌が、彼女の首に深々と刺さる。鮮血が吹き出し、視界が真っ赤に染まる。

 彼女の身体をまたぎ、血だまりを踏んで、悪魔が近づいて来る。

 その姿はもう、江田そのものだった。

「もう、俺だけだね」

 足元が崩れる。壁が崩れる。僕は一瞬宙に浮かんだようになり、そのあと真っ逆さまに落ちてゆく。

 轟音、悲壮な叫び。僕の悲鳴だ。

 古城が崩れて消えてゆく。

 ここは、僕だった。今まで知らずに過ごしてきた、僕の世界そのものだった。

 僕にはまるで違うように、見えていたのだけど。

「しばらく会社を休んだ方がいいね」

 目覚めた僕の枕もとで、江田が体温計を見て嬉しそうに笑う。三十八度五分。熱が少しも下がらない。

「もう、辞めちゃってもいいんだよ。ていうか辞めろよ。そうだ、辞めたらいい」

 江田は歌うように滑らかに言った。

その手元でカチャカチャと金音を立てる、見なくたって分かる。鎖で繋がった銀色の輪だ。

「みのり、ここにいて」

 気付くのが遅すぎた僕は、無言で頷くことしか出来ない。

 これからここが、僕の悪夢の城になる。

 もう、目覚めることは出来ないのだ。

♡拍手♡←コメントもこちらから