呆然とする僕の視界が揺れて、場面が切り変わる。施設だ。庭の端を横切り、いつでもごうごうと勢いよく流れている水路。深さが三メートルもあって、上にしっかり金網が張られている。その上に立ってじっと下を見ているのは江田だ。当時の僕よりは随分大きな、でもまだ小さな彼は、ドン、と足を何度か踏んだ。怖いくらいに、横顔に感情が無い。そういえば彼は今でも、時折、ほんの稀にだけど、こんな顔をしていることがある。
「せーいち……何してるの? もしかしておっきいカエルいる?」
子どもに戻った僕が離れた場所から呼びかけると、江田ははじかれたように振り返った。険しかった表情が、優しい笑顔に変わる。
「そうだったんだけど……残念、たった今行っちゃった」
「ええーー? 僕も見たかったよ。せーいちが足ドンドンするから、逃げちゃったんじゃないの?」
しつこく不満を漏らす僕に、江田は部屋に帰ろうと、押し戻すような仕草をした。
「今日のおやつ、プリンだってさ。二人も風邪で寝込んでるから、おかわりできるかも」
「え? 本当?」
僕はプリンにあっさり気を取られ、カエルのことは諦めた。
些細過ぎて、すっかり忘れていた出来事だ。
──……だから、何?
次に気付いた時、僕は一人、真ん中が大きく崩れた床の上に座っていた。
ゆうちゃん先生の姿はどこにも無く、手の中に以前彼の一部だったと思しき肉片が残っているだけだった。僕は先生を想って大声を上げて泣いた。あの人がいてくれたら、今も江田同様、良き相談相手になってくれていただろうに。
涙も枯れた頃、視界がガタガタ揺れて回転を始めた。遠くでかすかだけれど、僕を呼ぶ江田の声がする。目が覚めるんだな、そう思いながら僕は夢での意識を手放した。
ぼんやり眼を開けると、薄暗い中に江田の整った顔が見えた。夢とごっちゃになって、随分大人になったなあ、と思う。
「せーいち……起こしてくれた?」
夢の余韻で子どものように舌ったらずに尋ねると、タオルが目元に押しつけられた。
「泣いてたから……また怖い夢、見てた?」
外に目をやると、すっかり夜が明けていた。というよりも既に、太陽がほぼ真上にあった。聞けば、僕はあれから十四時間も眠っていた。あの夢の中ではそこまで長い時間には感じなかったのに。あそこと現実では時間の流れ方が違うようだ。
「……お城の中に居た。それで……悪魔と、ゆうちゃん先生が居た」
「お城の中……ゆうちゃん先生……って、あの、川で死んだ?」
こくこく頷きながら、僕はどろどろになってしまった先生の感触を思い出してまた涙を流した。
「先生、どうしてあんなところで死んだんだろう」
僕の疑問に「そうだね、不思議だね」と同意しながら、江田はぎこちなく手を伸ばして来る。
「ぎゅっと、したいんだけど……嫌かな」
僕は首を振ってそうしてもらった。強い、生きた筋肉の感触が頼もしくて、ついつい背中に手を回した。江田はそれに応えるようにさっきより強い力で僕を抱き締めると、ため息をついて肩に顎を載せてきた。
「返事、聞かせてくれる?」
何のことだろう──?一瞬考えてはっとした。そういえば僕は、江田に告白されたのだった。そんな彼に抱き締めて良いかと聞かれて頷いた上、抱き返したのはまずかったかもしれない。僕はまだ、返事を決めていない。
「その、……いきなり、すぎて」
「え……? そんなに意外だった? そんなに、ありえないことだった?」
その通りだ、とは言えない。
「……おとこ、どうし、だし……」
「関係無いよ。俺はみのりがいい」
「……でも、僕とは家族、作れないよ? 誠一は、家族がほしくないの?」
まだまだ先の話かもしれないけれど、僕だって江田だって、いつか誰かと結婚して家庭を作る日が来ると思っていた。でも、江田はそれさえ迷い無く否定する。
「みのり以外の家族なんかいらない。自分が親になるなんてぞっとする」
「誠一……誠一は、きっといいお父さんに……」
しどろもどろになった僕に、江田がもう一度ため息をついた。それはさっきのため息とは違って、落胆と、苛立ちの気配を濃厚に漂わせていた。江田は、僕が告白を受け入れると確信していたのだ。
申し訳無さに慌てて言葉を継ぎ足して、誰よりも大事に思っていること、友人とはいえ家族以上の存在だということを伝える。けれど、その気配は消えない。
「つまり、断るってこと」
「……じゃなくて……もう少し時間が欲しいんだけど……」
僕にしたらそれは苦肉の策だった、でも江田は納得してくれない。
「どれだけ待ったと思ってるんだよ……駄目なら駄目って、はっきり言ってくれていいんだよ」
そうは言うけど、駄目だなんて言える雰囲気が全く無い。
「みのり」
心臓を真っ二つにするような、強い声で名前を呼ばれた。
「それはおかしいよ。みのりはこれまで何回も告白されてたじゃないか。いつもはすぐ断って、あの子の告白だけはあっさり受けた。なのにどうして俺への返事だけ保留にするんだ?」
痛いところを突かれて、黙りこむことしかできない。
沈黙ののち、江田は長く重いため息を残して自室に引き上げた。僕は一人、江田と過ごしたこれまでの楽しい時間のことを考えながら辛く長い時間を過ごした。受け入れようか、というよりも、受け入れられるか、ということが問題だった。
いくら考えても、答えは出なかった。
寝る時間になって、固く閉ざされた彼の部屋の扉を恐る恐るノックした。顔を出した江田に、傍に居て欲しいと頼んでみる。きっと断られるだろうと身構えていたけれど、返事は「いいよ」だった。
「焦らせちゃってごめん……でも俺はもう、いっぱいいっぱいだよ……」
悲しげに謝られて、僕は苦しいような、自分がとてつもなく酷い事をしているような気持ちになる。向かい合ってお茶を飲む空間に気詰まりな沈黙が満ちている。何かを話そうと、昨日の夢に江田も出て来たことを話してみた。
「誠一、覚えてるかな……。たぶん、昔本当にあったことなんだけど……水路に大きいカエルがいたんだって、教えてくれた……あんな流れが速い所にいるカエルなんて、どんなだったんだろうね……」
それについての江田の返事は「まるで覚えていない」だった。
そして僕は再びあの城で目を覚ます。ニ回目だから昨日ほど驚きはしなかったけれど、腕と肩が妙に痛くて、一分後にその理由を知って青ざめた。
僕の両腕は、ひと纏めにされて無機質なベッドフレームにくくり付けられていた。
「……せい、いち……」
古い城の湿った空気に力ない声が霧散する。本当は助けてと叫びたかったけど、そうする資格が僕には無いように思われた。今でさえこうなのに、告白を断って前と同じでいられると思えない。けれど江田とハグ以上のことをできるのかと問われれば難しいと思う。悪魔がするようなことをされたら、きっと泣いてしまう。
──痛いよう……。
手首に食い込んでいる縄は粗く雑な作りで、あちこちがささくれ立っていた。そんなもので縛られているから、動かさなくても痛い。僕は、ぐすぐすと惨めに泣く羽目になった。
そして、例のごとく悪魔がひっそり現れた。昨日よりも、一回り大きくなっている。
『みのり』
耳では無く、直接頭に語りかけられた。知っているような、知らない声だ。辺りを見回したが何も無い。
「ゆうちゃん先生……?」違うような気がしつつも、つい呼んでしまう。ひょっとして、また会えないかと思ったのだ。でもそれはどうやら逆効果で、忍び寄って来ていた悪魔は鋭く叫び声を上げたかと思うと、前触れ無く飛び上がり、僕の胸元にのしかかって来た。
「ひっ……」
『みのり……!』
声の出所が分かった。この悪魔だ。この悪魔が、初めて僕に話しかけているのだ。
「お前は誰? なんで僕の夢に出てくるの……? この夢は何……?」
『みのり、みのり、みのり──!』
悪魔は質問に答えず、僕の名前ばかりを呼んで首元にかぶりついてきた。食いちぎられそうな程鋭い歯を立てられて、あまりの痛さに手の事を忘れてもがいてしまい、今度は縄の締めつけに悲鳴を上げた。
「痛い……っ! やめて……! やめてよ……!」
誰に助けを求めたらいいか分からない。僕はあちこちをかじられるという責め苦に耐えるしか無かった。その合間に指がやはり後孔へ侵入し、性器はぬめぬめと舐めまわされる。
先生は僕に「忘れていることを思い出せ」と言った。僕が何かを「見ていた」とも。それがこの夢の意味だとして、僕が忘れていることは何だ。見たものは何だ。
こんな風に、誰かに乱暴されたことがあるのだろうか。それとも乱暴される誰かを見たのか。いいや、そんな記憶は一切無い。確かに僕はこの中性的な容姿のせいで度々気の強い仲間から性的ないじめを受けそうになったことがある。でも、いつだって江田が助けてくれたから、それらが本格的に実行されることは無かった。それ以外でも、僕が知る限り、施設において性的な問題を見聞きした記憶は一切ない。
僕は少々淡白ではあるけれど、でもまっとうな男性として、初めての彼女と初めてのキスをして、あの夏祭りの少し前に初体験まで済ませたのだ。
「……んん……っ」
考え事で逸れていた意識が、新しい感覚に強引に連れ戻された。
僕の性器が、悪魔の執拗な愛撫に応えて勃ち上がりはじめたのだ。
「……そ、そんな……嘘だ」
認めたくない。嫌だ。感じてなんか無い、こんなの。
「あ、ああんっ‥…」
その意思は、外見に見合わぬ繊細な悪魔の指によって手折られてしまう。
僕の身体はどんどん熱をそこに集中させ、嫌がるどころかそこをこすり上げる動きに合わせて腰が揺れさえしてしまう。そんな僕が嬉しいのか、悪魔は喉を詰まらせるように、ククク、と鳴いた。情けないし、それ以上に恥ずかしい。こんなこと、いくら夢だって──。
けれど僕はそのまま、その手によって絶頂に導かれてしまった。それも最低なことに、体の内部を抉る指の刺激で。鼻をすすりあげながら、羞恥に目が潤む僕を見て、悪魔はひときわ楽しげに喉を鳴らした。そして、次の行動に移った。ゆうちゃん先生に助けられて逃れた、あの行為の続きだ。
「……待って、それだけは嫌だ……」
僕は達したばかりでけだるい下半身をうねらせて無駄な抵抗をした。そして、今度ははっきりと江田に助けを求めた。
目覚めたい、早く──。
「あぁぁぁっ──!」
でも、悪魔の指に慣らされた僕の身体はその醜い棒を受け入れてしまった。熱い塊でびりびりとそこから引き裂かれてゆくような痛みだ。僕は泣き叫ぶ。誠一、誠一と名前を呼びながら。絶対に誰とだってこんな行為はできないと思う。どれほど好きだって、大事だって、こんなことは出来やしない。
「う、っうっ、……あ……っ」
内臓を抉り上げられるような苦痛に喘ぎながら、僕が知るべきだったのはこれだったのかもしれないと、頭の片隅で思った。僕は、本当は江田の持つ特別な好意のことも分かっていて、知らずのうちに江田から漏れ出す欲望までも嗅ぎとっていたのでは──。
目を覚ましたい、でも、目覚めたくない。
現実も夢も、どこへ行っても行き止まりしか無い迷路だ。
**
長い長い、辛さしか無い行為が終わった。ずるずると引き抜かれる濡れそぼった性器を僕の衣服で拭い、悪魔はどこへともなく去った。じんじんと痛む不快な下半身を投げ出して、僕はベッドに磔にされたまま天井を眺めていた。そのうち目覚めるだろうと思っていた。
けれどいくら時間が経っても、僕の意識は古城にある。夢の中にも関わらず、生理的欲求さえ感じ始めた。お腹が空いた、喉が渇いただけではなく、頬に舞い降りた埃を払いたい、そんな些細な欲求さえ浮かんできた。
「誰か……解いて。誰でもいいから……」
うつろに呟くと、手の甲を、誰かに優しく撫でられた。
『痛いの痛いの、とんでいけ……』
さっきまで誰もいなかったはずの頭上に、懐かしい気配がある。
「……おばちゃん……?」
『──そうよ、今助けてあげるわね。遅くなってごめんね……』
少し痛むぞ、と低い声で言って縄をぶちりと切ってくれたのはおじちゃんだ。一瞬だけ僕の養父母だった二人が助けに来てくれたのだ。一瞬だけ、というのは、彼らは僕を施設から引き取って半年もしないうちに亡くなってしまったからだ。僕はその後施設へ帰り、以降養子の話が来ても受けないと心に決めて実際そうした。もう二度と、あんな悲しい思いをしたくなかった。
『さあ、たんと食べなさい』
いつの間にか現れた食卓に、この古城と全く不似合いな焼き魚や小さな椀が並んでいた。スポットライトが当たったようにそこだけが明るい。僕は操られるように自分の席につき、箸を手にとって頂きますと言った。
『おいしい?』
「うん……」
甘い卵焼きや炊きたてのご飯に空腹が満たされるにつれて、体中の痛みと不快感が消えてゆく。僕は温かな幸福に包まれ、彼らと楽しく会話をした。僕は勤め先の話をして、おばちゃんはもうすぐ来る僕の二十歳の誕生日の話をした。
『しかし、もうすぐ大人になるのに相変わらずみのりは細いなあ、肉も食べんと』
おじちゃんが僕に大きな塊肉を差し出した。お皿から肉汁がこぼれそうな、たこ糸でぐるぐる巻きにされた肉だ。そんなに食べられないと慌てると、おじちゃんはわははと豪快に笑って一口大に切り分けてくれた。僕が食べる様子を、二人はニコニコしながら眺めている。
『キャンプに行こうか、みのり。ベーコンを作ろう』おじちゃんに誘われて大きく頷いた僕は、直後にこれは夢だと思い出した。心の中の空洞が胸を押し、鼻の奥がツンと痛む。あんな火事さえ起こらなければ、この光景はきっと、現実だったのに。
『あら、電話』
電子音におばちゃんが立ち上がった。それを合図に風景が一変する。古城の一室は僕が半年を過ごした養父母宅の台所になっていた。何せ十年以上前のことだから、現実で思い出そうとしても思い出せないその場所が、今ではコルクボードに貼られたお知らせ一枚までくっきりと見えた。さっきまでずらっと食卓に並んでいた料理は消え、電話に応答しているおばちゃんの向こうに白い衣をまとったえびやさつまいもが見える。夕食の準備中のようだ。
『みのり君宛だったわ。江田君から。明日のことかしらね?』
そう、この翌日、僕は施設に遊びに行く予定にしていたのだ。おばちゃんから電話を受け取る僕の手は小さく縮み、「もしもし」という声も甲高かった。子どもに、戻っている。
「せーいち、どうしたの……?」
ひょっとして、具合でも悪くなったのではないかとドキドキしながら尋ねると、電話の向こうの江田は子どもながらに大人びた口調で「買ってきて欲しいものがあるんだ」と言った。
「新しい味が発売になったんだってさ。食べてみたいなあと思って」
久々に江田に会えることをとても楽しみにしていた僕はほっとした。他のお土産は用意していたけれど、彼が喜ぶ顔が見たい。天ぷらを揚げ始めたおばちゃんに声を掛けて、僕は家を出た。
ところが江田が指定した味のお菓子は近所のコンビニでもスーパーでも見つからない。仕方なくバスに乗って駅前まで行き、そこでやっと見つけることができた。
すっかり遅くなってしまって慌てて戻り、僕はそこで、出掛けた時と一変した我が家を見ることになる。
古いし大きくは無いけれど手入れが行き届き、玄関前で季節の花が咲いていたそこが、何台もの消防車に取り囲まれ、勢いよく噴射される水をものともしない猛烈な赤と橙色の炎に包まれていた。
「ああ……」
僕はその前で、なすすべもなく立ち尽くしていた。
おじちゃんとおばちゃんが見つかったのは、全てが灰になった後だった。
風景が消えて意識が古城に戻る。二人は煤に汚れた顔で、そのままそこに並んで立っていた。
「おじちゃん、おばちゃん……熱かった……よね……僕、お菓子を買いに行ってて、いなかった……」
その後の混乱で大切に持っていたはずのお菓子はどこかへ行ってしまい、江田もその件に関して何も言わなかったから、今の今まで忘れていた。あの電話が無ければ、きっと僕は、二人と一緒に死んでいたのだ。
「そのことを、思い出させたかったの……? 江田が、命を救ってくれたんだって」
けれど、二人は何も言わない。そして揃って戸口を指さした。松明を掲げ持った悪魔がそこに居て、止める間もなくその炎をベッドに投げつけた。僕は慌ててシーツをバタバタさせて燃え移る炎を消そうとするけれど、悪魔に首根っこを捕まえられて思い切り壁に叩きつけられた上廊下に放り出された。
「おばちゃん! おじちゃん!」
炎が部屋と二人を呑みこんで行く。助けようと手を伸ばすけど、悪魔に押さえつけられて彼らが黒こげになるのを、ただ涙を流しながら見つめることしかできない。まただ、ゆうちゃん先生の時と同じだ。僕は何もできない。
『みのり、ここにいて』
悪魔が囁いたその声に僕は息を呑み、心臓は動きを止めて凍りつく。
だってその声は、まるで──。
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