gina・作
「撮らせて頂いていいですか」
頷くと、その若い女はブロック塀越しに肉付きの良い腕を賢明に伸ばし、満開の薄桃色の大輪をどう切り取ろうかと、一眼レフのカメラを構えながら苦心し始めた。
「もしよろしければ、中からどうぞ」
しばらくその様子を見て声を掛けると「やっと言ってくれたか」とばかりの表情で「いいんですか」と口先ばかりの遠慮を言いつつ、庭に踏み込んで来た。
「綺麗」
呟きながらシャッターを押す女の足元を見つめる。歩きやすそうな、クッション性のある厚底のスニーカーだ。足場を固めるようにしてしゃがみこんだその下には、死体が埋まっている。
どうぞ心ゆくまで踏んで欲しい。そうされればされるほど、僕は癒されるのだから。
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「そろそろシャクナゲに日よけをせんとな……オイ、誰かおるか」
はーい、の高らかな声と共に顔を出したのは使用人の橋本さんだ。僕は服を整えながら、濡れた目を素早く拭いてパンツを履いた。でも、半ズボンを履くのと散らかった道具を片づけるのは間に合わなくて、橋本さんに見られてしまう。でも橋本さんもいい加減慣れたものだから、別に何も言わない。瞬きを一回したけで、見なかったことにしてくれた
このお屋敷の人は皆そうだ。瞬きすれば、見たものを全部なかったことにできる。僕は彼らの事を、そういう能力を持った超能力者なんだと思っている。
僕も、その能力が欲しかった。そしたらおとうさんに「裸になれ」「脚を開け」「尻をこっちに向けろ」そう言われる度に瞬きして、忘れることができるのに──今すぐにだって、その力を使うのに。
橋本さんは男の使用人の森さんを呼んで来て、立派な支柱を立ててそこよしずを広げ、三十分程で器用に日よけを作った。おとうさんはそれを満足げに眺めながら、「咲くのが楽しみだ」とツヤツヤした葉を撫でている。
今年の春になったら、あの木には大きな花が無数に咲く。それはそれは綺麗なのだけど、僕にはその季節が怖くてたまらない。だって、その日はおとうさんが一年に一度のお客さんを招く日だから。偉い人が、大勢あの花を目当てにやって来るのだ。
そのお客さんをもてなすのは、僕の役目だ。僕だけじゃなくて、お客さんたちも僕みたいな子どもを連れてきて、僕と同じ役目をさせる。去年僕は初めてそれに参加させられて、あまりに辛かったからその後の記憶が一週間以上残っていない。でも、その日のことは良く覚えてる。一人、ぐったりして動かなくなった子がいたのだ。その子は裸のままどこかに運ばれて、何事もなかったように会は続いた。僕は忘れられない、あの子の足を伝って落ちた、ヘンに桃色をした液体のことを。それが庭のシャクナゲの花びらと同じ色をしていたから、余計に忘れられない。
──怖い。怖い。すごく、怖い……。
ふと、橋本さんが、まだ下着姿でぼうっと立っている僕を見た。そして瞬きをして目を逸らし、大きなハサミで結んで余った荒縄をちょきんと一息に切った。隣の支柱に移動して、またちょきん。
ここにまでその音が聞こえるくらいに歯切れのいい音で、切れ味がいいんだなあと僕は思った。もしかしたらあのハサミ、指だって切り落とせちゃうんじゃないかなって……。
──あれ、もしかして今、いいこと思いついたかな?
僕は自分の考えにうんうん頷きながら、やっと濡れた下半身の上からズボンを履いた。
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学校にもどこにもいかない僕の毎日は淡々としたものだから、その日も普通に訪れた。橋本さんと森さんに立てられた日よけと、その後おとうさんに言われて工藤さんと横山さんがやった肥料のお陰で、おとうさんのシャクナゲは今年も見事に満開だ。招待客は明日の昼頃訪れるそうで、屋敷の中は右に左に騒がしい。
最後の仕上げだろう。橋本さんがシャクナゲの花ひとつひとつを見て回り、縮れた花びらを取りはらったり、一足早く痛んだ花を切り落としているのが見えた。使っていたのは、あの日ちょきんと縄を切ったハサミだ。
その夜遅く、僕はそうっと庭に出た。昼に橋本さんが花の手入れをし終わって、縁石に置いたままにしていたのを目にしていたから、取りに行ったのだ。
月の光に照らされても、目当てのハサミはそんなに光っていなかった。でも指でつついてみたら僅かに交差した刃先は十分鋭くて、これならきっと大丈夫だろうと確かに思えた。
さっきまで居た広い和室に戻ると、明日もさんざんさせるくせに、僕の中身を散々かき回したおとうさんが、高いびきを立てて眠っていた。
起きている時は背筋が伸びて、知らない人が見れば素敵に見えるらしいおとうさんの正体は、僕に変なものを突っ込んで泣かせて喜ぶ化け物だ。でもこうして寝ていると、ただの汚いおじさんにしか見えない。
だから、子どもの僕でもやっつけられる。
僕はハサミをぎゅっと握り、真下に力いっぱいつき立てた。僕を虐めるあそこをちょきんとしてからにしようかと思ったけど、見たくないから止めておいた。
それは、すごく簡単だった。最初おとうさんは「ぐえ」と呻いたけど、突き刺してはよいしょと引き抜くのを繰り返すうちに「ぐちゃぐちゃ」とねばった音をたてるゴミになった。
僕は最後の「ぐちゃ」の状態でハサミを突き立てたまま置いておき、血とかなんとか色々飛び散って臭かったからその場で寝巻を脱いで、裸足で廊下をぺたぺた歩いてシャワーを浴びてさっぱりしてから、自分の部屋に帰って普通に寝た。
戻る途中で森さんに会ったけど、森さんはやっぱり瞬きしただけで、何も言わなかった。その瞬きの威力はちゃんと次の朝もそのままで、普通に朝ご飯の時間が始まった。でもおとうさんの分の御膳は用意が無くて、僕はもぐもぐといつでも美味しい光代さんの作るお味噌汁の具を噛みながら、「おとうさんは?」と尋ねた。
僕にご飯のお代わりを尋ねかけていた橋本さんはニ、三度瞬きをして、庭を指した。シャクナゲの前に、こんもり、土が盛りあがっている。
「あそこ? あそこなの?」
驚く僕の問いかけに、その場に居た使用人全員が頷いた。
「私ども全員で、あそこに旦那さまを埋めました」
僕が昨日したこと、もしかして、見えてた?
みんな、僕のことが見えて無いんじゃなかったの?
次にした、この大慌ての僕の問いかけには、その場に居た使用人、全員が首を振った。
「坊ちゃん。あなたは悪くありません」「今まで助けることが出来ず、本当に申し訳ございませんでした」「これから一生、わたくしどもがあなたを守り、お世話致します」
たくさんの頭が下がるのを、僕は呆然と見ていた。
瞳から涙がたくさんたくさん流れ出して、いつまでも止まらずに、干からびてしまうんじゃないかと思った。
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「写真を撮っても、いいですか」
今日もシャクナゲ目当ての人が来た。立派なエンジニアブーツを履いた両足が、やはりおとうさんを踏みつける。
「それにしても見事ですね……」振り向いたその人は、どこかしら、お父さんにおもざしが似ている気がした。おとうさんの場合は目じりに皺三本入るけど、この人には一本しか入らない。そしておとうさんの優しげな目元は偽物だけれど、この人のそれは本物に見えた。
「どうですか」そう言いながら、彼は僕に撮ったばかりの写真を見せた。小さな画面だけれど、なかなか良く撮れている。僕は感じた通りの感想を言った。
「お上手ですね」
「いえいえ、被写体がいいんでしょう……本当に見事だ……土がいいのかな」
その人はなかなか立ち去らず、おとうさんの成分を含んだ土を、さらさら撫でる。
「肥料はどんな?」
尋ねられた僕が「人間です」と答えたのは暇にあかせた戯れだった。どうせ本気にしやしないし、気味悪く思ったなら、帰るかと思って。
ところがその人物は眉をひそめると、真剣な瞳で、じっと見つめてきた。
「ひょっとして、ここに埋まっているのかな……僕の、父は」
シン、と庭の空気が静まり返る。僕と、彼の間に風が吹く。
聞いたことがあったような、無かったような記憶が蘇る。かつておとうさんに、奥さんと、本物の息子がいたことを。彼らは随分前に、追い出したんだと聞いたけれど。
僕は彼の所まで歩いてゆき、背の高いその人を胸元から見上げた。
「……だったらどうします。警察を呼んで、調べます?」
コトリ、と屋敷から音がした。さしずめ森さんか工藤さんだろう。この会話の行方によっては、体格の良い彼らが出て来て、もう一つ穴を掘ってくれるはずだ。
でも、その必要は無かった。彼が両手を広げて、僕を力強く抱き寄せたから。
「もしそうなら……よくやってくれたと、君にお礼を言わなくちゃ……僕もそうしたいと、ずうっと思っていましたから」
彼が汗だくになって土を掘り返すのを、僕たちは黙って見ていた。一度何かを掘りあてて、しっかり埋め直すのを、ずうっと見ていた。ふうと一息ついたその人に何が埋まっていたかと尋ねると、彼は笑って言った。
「大きなゴミがありました」
橋本さんが後ろから「坊ちゃん」と声を掛けてきた。お茶の入った茶碗が二つ、盆の上に乗っている。
「──お茶を飲んで行かれませんか? 僕、一人で寂しいんです。ほら、そこの縁側で。一番綺麗にシャクナゲが見える場所なんです」
「それは、とても素晴らしい」
にこりと笑う彼の向こうで、薄桃色の花びらが、歌うように揺れていた。
春の風に吹かれて、さわさわと。
了
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