2話
そして僕は、真っ暗闇の中で目を覚ました。勿論、夢の中の目覚めだと分かっている。江田が傍にいてくれるからという安心感からか、今日は自由に動くことが出来るようだ。
怖々起き上がり、暗闇の中にあの鈍い黄色の瞳を探す。けれど瞳どころか他の何も見えず、見えるのはぼんやり明るい長方形だけだ。この暗さといい、少し、いつもの夢と様子が違う。
明りの方へ近づこうと、僕は初めて夢の中のベッドから降りる。と、不思議なことに気が付いた。裸足の足を置いたそこが、湿り気を帯びた石のような感触なのだ。この夢の中で、僕はいつも自分の部屋にいた。けれどここは、そうじゃない。そうじゃなくて──。
──まさか。
思い当って、光る長方形に向かって駆け寄る。近付くごとに明るくなって、僕の目の前にそれが飛び込んでくる。
それは、僕がいつも夢で最後に見ていた、あの茫漠とした岩山の風景だった。但し、視点が違っている。城があるはずの山の向こうには、輝く海のような水面と色とりどりの屋根が見えるのだ。
「嘘だ!」
嫌な予感に思わず叫んで、そこから身を乗り出して左右を見渡す。強い風に頬をなぶられ、怯む。それでも落っこちる寸前まで首を伸ばす。そして石造りの壁面を見て確信した。僕は間違いなく、あの朽ちかけた古城の中に居る。
「そんな……! まだ向こうに、あったのに!」
何日も眠らなかったから、その分近付いたとでも言うのだろうか。僕は下を見てその高さに身体をすくめ、後ずさりして固いベッドフレームに脛を思い切りぶつけて悲鳴を上げた。痛みが近い。夢とは思えない、リアルすぎる感覚だ。僕は大声で江田の名前を呼んだ。起こして、起こして、怖い、お願いだから僕を起こして! でないと悪魔よりももっと恐ろしいものを見てしまう──!
けれど僕は目覚めることが出来ずに、暗闇に忽然と現れた悪魔を見つけてしまった。今までしゃがみこんだ姿勢だった悪魔は、ゆらりと立ち上がっている。大きい、思ったよりもとても……。
「誰……誰だよ……なんなんだよ……」
かび臭い空気を裂いて、悪魔が僕の方へ、引きずるような音を立てながら近づいて来る。
「助けて、助けて、誠一! 起こして!」
声の限りに叫ぶけれど、ばねみたいに伸びて来た腕に喉を掴まれて声を詰まらせた。悪魔はもう片方の手で僕の輪郭を確かめるようにすらりとなぞる。触れられた場所から広がる嫌悪感に、嫌だ、気持ち悪い、触るな、を繰り返しながら泣きわめいた。でも目覚めることはできない。こんなに必死で叫んでいるのに、現実の僕はうなされていないのか。
「いや……」
また、舌と指を使った愛撫が始まった。僕は寝巻ではなく、頭からすっぽりかぶる大きなTシャツのようなものを着ている。僕がそれ以外の衣服を身につけていないことを悪魔の手が執拗に教えてくれる。男にしては華奢すぎる胸や脚の間を撫でるその手をなんとかしようと僕はもがく。けれど悪魔は僕を羽交い締めにしてベッドに押しつけると、所構わず舐めて来た。頬、唇、首、ぶかぶかの衣服から覗く肩、膝、足の指の一つ一つまで。悪魔の舌はその外見にそぐわずとても柔らかく、そして湿っぽかった。舐められた所が冷えて、寒くなるほどだ。
「うう……っ。嫌だ……離して」
全力で突き離そうと努力する。かすかに動くことはできるけれど、あまりにも力が強くて何の意味も成さない。疲れ果てた僕は、いつものようにぎゅっと目をつぶり、その時が終わるのを待つことになった。ある程度触ったら景色を見せられて、夢が終わると思ったのだ。
「‥‥…っ!」
ところが、終わるどころかそれはエスカレートしてゆくばかりだ。悪魔は今まで触れなかった性器をその生ぬるい口で包みこむと、両手で尻を掴み少ないその肉を押し分けて、秘部に指を差しいれて来た。
「やだ、やだやだやだ──!」
これまでと比にならないほどの不快感と恐怖に、僕は駄々をこねる子どものように脚をばたばたさせた。けれどその抵抗をものともせず、ずるずると長い指が僕の体内に沈んでゆく。
「痛い……痛いよ……!」
その指は泣きじゃくる僕の中の粘膜を散々ひっかき回す。僕の身体が次第にその苦痛に慣れを見せてくると、指が抜かれた。そしてその代わりに、ゴツン、熱い塊がぶつかった。最悪の予感に、僕はすすり泣く。
「うう……っ……せいいち……たすけて……せいいち」
僕は震えながらその名前を呼ぶ。何度も何度も。
『みのり……みのり君』
ふと、僕の声に応えるように、耳に懐かしい声が届いた。江田のものではないその声に、抑えつける力がふと弱まる。その隙に僕は、悪魔のどこかを掴んで力いっぱいかじりつき、突き飛ばしてなんとか逃れた。
『みのり君、こっち』声に導かれるままに、僕はうずくまっている悪魔の横をすり抜けて、暗い石の部屋を
飛び出す。背後から咆哮が聞こえた。きっと悪魔が怒って吠えたのだ。僕は後ろを振り返らずに、古城の中をやみくもに走る。廊下は外から見た通りにゆっくりカーブしていて、途中で上と下へ向かう階段があった。どちらに行けばいいのか迷った末、上を目指す。そのほうがなんとなく目覚めに近いと思ったからだ。
一番上まで登り切ると、いくつもある扉の中からまたさっきの僕を呼ぶ声が聞こえた。そこを開いて迷わず飛び込む。
「うわっ……」入った先の床はびしょ濡れだった。なんだか生臭いような嫌な匂いもする。ここは駄目だと考えて、別の部屋に行こうと後ずさる。それを、さっきの声が引き留めた。
『みのり君、待って。行かないで』
いつの間にか、そこにすらりとした男性が立っていた。僕はその人を見て、驚きの声を上げる。
「ゆうちゃん先生……?」
『みのり君、大きくなったね』
僕は動かない彼に近づこうと、びしゃびしゃの床に足を取られながら駆け寄った。嫌なにおいがぐっと強くなったけれど、その懐かしい人物に近付きたい一心で我慢した。その匂いの理由に、思い当たっていたのもある。
ゆうちゃん先生は施設の職員だった人だ。他の職員も皆優しかったけれど、この先生と僕は特に気が合って、というか僕のほうが、彼の包み込むような優しい雰囲気を好んで懐いていて、後を追いかけまわしては、遊んでもらったり手伝いをさせてもらったりしていた。
ところがある日突然、彼はいなくなる。そして一ヵ月も経った頃、遠く離れた河口で溺死体になって見つかったのだ。
この強烈な生臭さは、腐った水と肉の匂いだ。
「先生……会えて嬉しい……」
僕は成長した今でも尚上にある彼の顔を見上げ、短い髪に絡みついた水草を取ってやる。
「もっと楽しい夢で逢いたかったなあ……でも僕、今はこの夢しか見られない」
僕の言葉に、先生は辛そうに顔を歪めた。
『この夢でいいんだよ。きみはここで、知らなくてはならない』
「……知るって何を……」
『全てを。きみが、忘れてしまっていることを』
嫌だ、と僕は叫んだ
「先生はいつも、幸せになれって僕に言ってくれてたじゃないか! この夢のせいでまともに眠れなくて、友達には迷惑かけて、仕事でも失敗して……もう嫌だよ!」
『……みのり君、でもね──』
先生が何か言いかけたその時、地響きのような音が足元から響いて来た。そして見る間に床がぼろぼろと崩れ落ちてゆく。
「う、わああっ」
僕はかろうじて残った部分に掴まって、脚を宙に浮かせた。階下に向かって壊れた床の欠片が転がり落ちる。けれどそれきりどこにも当たる音がしない。見下ろすと、下の階があるはずの場所には暗闇が広がっているばかりだった。
「落ちる、落ちる……!」
『みのり君……思い出せ。君は、見た』
「ゆうちゃん先生……!」
両手で掴まって胸が床の上にある僕よりも、先生はもっと危険な状態だった。片手で今にも崩れそうな壁材を掴んでぶら下がっているのだ。助けようと手を伸ばすけれど、到底届かない。僕はひとまず自分が這いあがり、先生に向かって手を伸ばした。
「先生……!」やっとのことで手首を掴んだ。と思ったのに、彼の皮膚はぶよぶよにふやけていて、あっと思う間も無く煮込んだ肉みたいにずるりと剥がれて落ちてしまう。露出した骨に僕はパニックになって、彼のあちこちを掴んでなんとか引き上げようとする。でも出来ない。どこもぐずぐずと崩れてしまう。
「助けて、誰かたすけて……! ゆうちゃん先生が……!」
ふとその時、頭上を暗い影が覆った。そしてゆうちゃん先生の手を踏みつけた。
「何するんだよ! 止めろよ!」
僕は影に向かって手を伸ばす。その手が虚しく空を切る。
──あ……っ!
『見ただろ』 その言葉を残して、ゆうちゃん先生は影と共に暗闇に消えた。