微ホラー・監禁アンソロジー寄稿作・何でも許せる方向け・20000字程度
岸本みのりは毎夜奇妙な夢に悩まされていた。おぞましい悪魔が部屋に現れ日に日に近づいてくるのだ。意を決して同居人に打ち明けたが悪夢は止まず、──やがて。
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1話
また、同じ夢を見た。
醜い化け物が部屋に居る夢だ。濁った黄色い眼球は飛び出して、手足はやけに細く長く、汚らしい色の皮膚に覆われた身体は腹が突き出ているのに痩せていて、そして、身体の中央で濡れた性器が屹立している。
夢は始め数日おきで、それがいつの間にか毎日になり、さらに日を追うごとに鮮明に、長くなっていた。
見る度にその化け物──僕は悪魔だと思っている──は接近している。ただ部屋の隅に座っているだけだったのが、ベッドの上で金縛りにあったように動けない僕に向かって一歩、また一歩と近づいて、とうとう一週間前に頬を撫で、くっつきそうなほど至近距離からじろじろ眺めたかと思うと、その三日後にはそこだけ妙に鮮やかに色づいた舌を伸ばして首や耳朶を無遠慮に舐め回してくるに至った。僕はその悪魔の造形の気味悪さとおぞましい感触に震えながら、去るまでひたすら耐えている。
その夢の最後は、いつも決まっていた。視界一杯に臨場感のある風景が広がるのだ。今にも嵐が訪れそうな不穏な灰色の空、生き物の気配がまるで無い折り重なった岩山、その奥にひっそりと建つ古城……そう呼ぶにはそれはあまりにも朽ちて粗末な円柱なのだけれど、夢の中の僕は、それを城だと思っていた。
その城も、悪魔と同じで夢の度に少しずつ近付いて来ている。なんなら明日にでも、あちこちで口を開ける長方形の窓を覗けてしまいそうな距離まで迫っている。だけど、僕は中を決して見たくない。とんでもないものがそこに潜んでいるようで──いや、もう確信に近いレベルで僕はその気配を嗅ぎ取り、その城を酷く恐れていた。
──もう眠りたくない。
あまりに不快で不埒な目覚めを繰り返すうちに、僕は次第にそう考えるようになっていた。
そして、全身にびっしょり汗をかいて目覚めるなり嘔吐した明け方を境に、就寝前に飲んでいるお茶を濃いブラックコーヒーに変えて、カフェイン入りのタブレットを噛み砕きながら、独り眠気と戦って夜を明かすようになった。
「……もと、岸本!」
強く肩をゆすられて、居眠りしていたことに気が付いた。どうやら僕は通勤電車と昼休みに続き、勤務中唐突に訪れた睡魔に勝てなかったらしい。
今日で、夜眠らなくなって三日が経った。日中の短い睡眠で例の夢を見ることは無いからそうしているのだけど、もう限界に来ているようだ。コーヒーは勿論カフェインが大量に入った飲み物でも効き目が無くなり、どうにかして眠気を取ろうと僕が愚かにもカッターで腕を傷つけたのは、昨夜のことだった。
「酷い顔色だぞ……今日は帰ったほうがいいんじゃないか」眉根を寄せて心配する上司に謝りながら立ち上がりかけるけれど、そのまま崩れるように床に座り込んでしまった。結局早退を命じられ、帰りの電車でも居眠りしてしまった僕は、終点で駅員に起こされた。
なんとか家にたどり着き、そのままソファでうつらうつらする間に夜になる。幼友達で同居人の江田誠一が電気も点けずに暗がりに居る僕を見つけて大騒ぎした。「みのり、みのり!」名前を連呼して救急車を呼びかねない勢いの彼を制止しながら、もういい加減に夢のことを話そうと覚悟を決めた。内容が内容だからずっと迷っていたけれど、彼はきっと笑わないし、一人で持つにはもう重すぎる悩みになっている。性的な部分は伏せておいて、悪魔と城のことだけを話せば良い。
「悪魔が近付いて来る……? 古い城……何だそれ……怖いな……」
やはり彼は少しも笑わず僕の話を真剣に聞き、腕を傷つけたことを知ると涙まで浮かべてくれた。「辛かったな。良く話してくれた。このところ様子がおかしかったから、心配でたまらなかったんだ」そう言う江田は、僕が夜通し起きていることにも気付いていた。音にも光にも相当気を使っていたのに、さすがだと思う。
僕には両親がいない。母親は僕を産んだその時に亡くなって、父親はそうして生まれた僕を嫌って育てることを拒否してどこかへ消えてしまった。そして僕は唯一の親族である母方の祖母の元へ行ったのだけれど、その祖母もすぐに亡くなってしまい、その後から就職までの期間を殆どずっと施設で過ごしてきた。そこは過ごしやすい良い所だったけれど、よほど僕は巡り合わせが悪いらしく、度々大きな悲しみや不幸に見舞われた。でも、そんなときは決まって同じ施設育ちで三つ年上の江田が、僕を癒すために全ての時間を費やしてくれた。だからあの事件の後で、既に独立していた彼から同居を持ちかけられたのも、その延長線上にある優しい行動だったのだと思う。僕にとって江田は、ただの友人を越えた、かけがえのない存在なのだ。
「その夢、前からちょくちょく見てたって言うけど、ひょっとしてあの時から? お前の彼女が……」
江田のその遠慮がちな問いかけに、僕は首を振った。江田が言うのは、一昨年、僕がまだ高校生だったころの一件だ。初めての僕の恋人が、一緒に行った花火大会の後で命を落としたのだった。背中をひと突きにされ、たった数千円が入っただけの財布を奪われるという、残忍な強盗殺人だった。
不可解な事件でもあった。あの夜僕は、彼女を家の前まで確かに送ったのだ。なのに彼女は家に帰らずどこかへ行って、その結果事件に巻き込まれてしまった。彼女の行動の理由は分からず、犯人は今でも捕まっていない。
けれどそのことと夢は関係無いと思われた。彼女のことはとてつもない悲しみと衝撃を僕に与えはしたけれど、今ではたくさんある辛い思い出のひとつとして僕の一部になって溶け込んでしまっている。季節がめぐる度に二人で、又は誠一も含めて三人で遊んだことを思い出しては寂しさに胸を痛めるけれど、あんな陰鬱で卑猥な夢を見させるようなものでは無い。こんなに早く立ち直れたのは、「どう考えてもみのりのせいじゃない、運が悪かったんだ」と励まし続けてくれた江田のお陰だと思う。
その気持ちを隠さず江田に伝えると、彼は一瞬微笑んで、じゃあなんだろう、と女性の関心を引く端正な顔を困惑の形に変えた。
「もしかして、俺のせいかな……俺が知らない間に、負担をかけてるのかも。みのりが社会人になって一緒に暮らし始めて……家事とか色々、やらせちゃってるもんな」
僕はさっきと打って変わり、今度は激しく首を振って否定した。
「まさか……! 誠一が僕の支えなんだよ。頼りっきりはこっちのほうなのに、負担だなんて」
「でも、俺と暮らし始めてからなんだろ……? 気になるよ」
僕が夢の中身を端折って伝えたことで、彼は自分のせいで僕が不安定になっていると思い込んだようだ。心配してくれる江田には申し訳無いけれど、毎回悪魔に身体を舐められているなんて恥ずかしいことは絶対に言えない。もしそんなことを言ったら、ただの欲求不満だと思われて呆れられてしまいそうだ。
実際自分でもそういう夢なんじゃないかと考えて、滅多にしない自慰を試みたこともある。でもむなしい射精の後の眠りでもまた同じ夢を見てしまったのだから、それも含めて彼には言いたくない。
「とにかく、これからはちゃんと寝ろよ。一緒の部屋にいてやるからさ。もしうなされてたら、すぐに起こしてやるし……みのりには二度と、自分で自分を傷つけるようなことはして欲しくない。もし間違って動脈でも傷つけたら、どうなると思う……? みのりを失うなんて、耐えられないよ……」
江田の優しいその言葉に、僕は泣いてしまった。単純な嬉しさと、本当のことを言えない後ろめたさがあった。
「ごめんね……誠一、僕と同居始めたせいで彼女と別れちゃったんだろ……どう償ったらいいか」
「それこそ関係無いよ。俺はずっとみのりの傍に居られる今の方が、ずっと幸せだよ」
彼の寛容さがひたすら有りがたく、頭が下がる。優しい江田の為にも、一刻も早く自立したいし夢からも解放されたい。
「さあ、一分でも早く眠らなくちゃな。気持ち良く眠れるように、新しいシーツに替えてやるよ」
そう言って整えてくれたベッドからは、石鹸みたいな良い香りがした。今夜はブラックコーヒーの代わりに、いつも江田が淹れてくれるあたたかいお茶を飲む。甘い香りの、心が落ち着くハーブティだ。
「はあ、よく寝れそうだ……」
「みのり」
「……うん?」
早くもうろうとしてきた僕の額に触れながら、江田が突然言った。
「愛してる」
「……え?」
一瞬で頭が冴えて、目を見開いた。気まずそうな江田の両目が、僕を正面から見据えている。
「ずっと言わないつもりだった。でも、もう我慢できない……俺はみのりを愛してる。ずっと、ずっと前から。つまんない折り紙のウサギかなんか作ってやって、ありがとってニコっと笑ってくれた日からずっと……目が覚めたら、返事が欲しい」
僕は純粋に驚いた。気付けば当然のように一緒にいたのだ。折り紙のウサギのことも、覚えていない。
「……返事って……」
「俺を幼友達から、恋人にして欲しい」
「……恋、人……」
寝耳に水とはこのことだ。江田の頼みなら何でも叶えてあげたいけれど、あまりに唐突すぎる。誰より大事に思うけど、それとこれとは別だ。だからといって、彼を拒絶するようなことが、果たして僕にできるだろうか。
睡魔でとろけてゆく僕の頭は、大いに困惑していた。あんなに眠るのが怖かったのに、今度は起きるのが怖いと思うなんて。
──……ぜい、…たく…かも……。
途切れ途切れになる意識の中で、江田が僕の耳元で「ごめん」と言った。悲痛なその一言に彼が秘めてい
た想いの強さを感じて、胸が締め付けられる。
でもとりあえず今は、眠りの沼に落ちるのを止められない。
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