ザーマク・ガドルの魔術師

 
『さあ早くおいで、早くこっちへ逃げるのよ──おお寒い、肺が凍えてしまいそう……なんと恐ろしい、恐ろしいこと──』

 彼の鋭い耳は、娘を心配する母親の声を捉えていた。
 
『きゃあ、何かが、脚に……かあさん! かあさん!』

 彼の魔力を帯びた瞳は、彼宛の供物を置いた娘が、飛び出した木の根に脚を取られて転倒する様を視ていた。

 出て行って怪我を治してやろうかと立ち上がりかけ、しかし思い直して再びソファに腰を下ろした。そして、深いため息を一つ。
「──ボクは、何も頼んでいないのになあ……」
 呟くと、白い毛の子猿のようなものを呼び寄せた。小さくしなやかな二足歩行のそれの額を撫でてやり、「取って来ておくれ」と頼む。「かしこまりました、ごしゅじんさま」白い生き物は「チチ」と鳴き、背中に生えた四枚の翼を羽ばたかせ、供物を持って機敏に戻って来た。
「ごしゅじんさま、赤い果実でございました……チチ」
「……赤……どうして赤に、なったんだろうねえ……ああ、食べても良いよ。ボクも後で戴くけどね、今はいい」
「チ!」
 白い小さな生き物は、小さな手でたくさんの赤い実の一つを持ってかぶりついた。そこらじゅうに汁を垂らすのを、彼は指先を払うようにして「消して」ゆく。
「美味しいかい」
「チチ!」
「……良かったね、シロ……ボクも君が出来てくれて良かった。こんなにたくさん、食べきれやしない……」
 シロ、と呼ばれたのは子猿ではなく、雪が命を持って姿を変えた生き物だった。屋敷の隙間から入り込んだ雪が、彼の強い魔力に「当てられて」命を持った。
 彼は──セフィド・アルマは──大きな山の奥の奥に居を持つ、見た目は若くとも齡は二百歳を越える魔術師だ。彼は世界のあちこちで度々居を変え今はここにいるのだが、いつでも彼の存在は、ふもとの町や村の住民に知られてしまった。

 何故なら、山の様子が変わるからだ。
 彼の強すぎる魔力が漏れ出して、山は、年中その頂きに純白の雪を纏うことになる。
 
 特段、町や村に影響が及ぶわけではない。変化といえばそれだけなのだが、彼は「恐ろしい何か」だといつも誤解された。悪魔の類だとされることもあれば天から堕とされた神族だと呼ばれることもある。だがいつでも場所場所で色々な決まり事が作られ、恐れられるのに変わりは無かった。
 今の彼は「氷の妖魔」と呼ばれ、月に一度、「若い娘」が「赤い供物」を捧げることで、町に災厄をもたらさなくなる、とされている。
「さて、何時までここに居ようかなあ……どう思う、シロ」
 珍しく独りで無くなった彼は、雪で出来たシロに話し掛けた。
「気の毒だろう……月に一度だとはいえ、彼らの大事な食べ物を、こんな山深い所まで持ってこさせるのは」
 セフィドはふう、とまたため息を吐いた。それだけでキラキラした氷の粒が出来、瞬時に消えた。彼の魔力は、氷の力を強く帯びている。
「……はあ」
しばらく氷のため息を繰り返し、セフィドとシロはその山を後にした。魔力で作った彼の住まいが消えているのを確認しなくとも、ふもとの者たちは彼が去ったことを知るだろう。山の頂きから雪が消え、緑が芽吹くのを見て──「悪魔が去った」と。

 シロを伴い、彼は何度目になるか分からぬ引っ越しをした。その先でもやはり同じことになり、また居を移したその先でも、同じことになった。
「そろそろかな、シロ」
 彼は毎度申し訳なく思っていたけれど、前ほど辛くはなかった。シロが居て、そのシロがどんどん成長していったからだ。シロは彼の話し相手になり、孤独を癒し──、
「おもうのですがね、旦那様。そのお顔をお見せになったら良いと思うのですよ。隠れたまま逃げ回るのでなく……」

 生活に、口出しをするようにさえなった。

「意地悪だな……一度したろう、そうしたらどうなったか、幼い君だっておぼえているだろ」
 彼は二度とあんな目で見られたくない、とこめかみを揉んだ。俯きさらさらと落ちる銀髪を、しかしシロはぎゅっと掴んで引っ張った。
「痛いな! 何をするんだ……」
「笑わないからです、旦那様、シロは雪に化けて町を飛んで見て回りました。皆、笑っております。旦那様のお顔は、それはそれは冷たく──いかにも呪い殺されそう」
「酷いことを言ってくれるな……シロ」
 セフィドは辛辣な言葉に泣きそうになったが、シロは彼を遥かに追い越した巨体をぶるると震わせ、腕組みをした。
「いいえ、言いますよ、今度ばかりは言わせて頂きます。シロはこの山……ザーマク・ガドルも、ザーマク・ガドルのふもとの村も格別気に入っているのです。湖があって花が咲き、他所よりたくさん生き物が棲んでいる。争いがないどころか、月に一度は歌や踊りのお祭りがある。旦那様を怖がるのは変わりませんがね、もう引っ越しは嫌です……! そうだ旦那様、挨拶をするのです! この村の住人になるために! さあ! 笑って」
「そんなことを突然言われたって分からないよ、ボクはこの顔しかできない」
「出来ます! まず口の端を上げます」
「……口の、端?」
「そうです、それから、使者に歓迎の言葉を言うのです。名を名乗り、怖がらなくて良い、いつもありがとう、と感謝するのです」
「……感謝……」
「そうです、旦那様はいつもシロが何か手伝うときちんとありがとうと言ってくださいます。優しい旦那様が誤解されたままでいるのは嫌なのです! さあ! やってみて!」
 セフィドはうーんとうなり、しかしシロに嫌われたくない一心で、顔を上げた。
「……ようこそ……我が名は……セフィド……」
「怖い! その間の取り方すごく悪魔っぽい! 「我が名」も駄目! やり直し! もっと明るく気さくに!」
「よ、ようこそ、わが家へ。私の名はセフィド」
「顔も駄目ですがその手つきはもっと駄目! 魔術かけられそう! 手は腰! 違う! 両手じゃなくて片手だけ! はいもう一度!」
「う、うう……」

 シロの厳しい特訓は毎日続き──捧げものの日がやって来た。シロは「優しさの象徴」として魔力で子どもの頃の愛らしい姿に身を変え、セフィドの肩にちょこんと載った。

「ど、どうか……どうか村に災害をもたらさないでください、アブヤドウ様」
 ザーマク・ガドルの村での彼の呼び名は「アブヤドウ」と言い、天候を司る神という設定だった。そして、供物を持って来るのは、いつも10歳未満の男児。
「……き、来た」
 早く、とシロに蹴飛ばされ、彼は扉をそうっと開けた。男児と目が合い、男児は驚きすぎて腰を抜かしてしまう。しかしセフィドはもう、シロに笑顔の特訓を受けるのも、叱られるのも嫌だった。
 シロとの穏やかな夜を取り戻したい一心で、なんとか「合格」を貰えた笑みを浮かべた。

「怖がらないで……僕はセフィド、決してあなた方を傷つけない……ただの魔術師です……ちょっと、魔力が強すぎるだけの」
「……へ」
「そ、それで、こいつはシロ、僕の友達、たった一人の友達」
 男児はしばらくあんぐりと口をあけ、セフィドの特訓の成果を見上げていた。駆け寄ってきた彼の母親らしき女性も男児を抱きかかえた後、セフィドを見て同じような顔になる。
「あ、あと……その、雪が降ってしまうのは魔力でどうしようもないのですが、雪崩が起きる程のことは、ないので……ふもとを氷漬けにすることだって、絶対しません」
「……」
 二人が無言の間、セフィドはドキドキと鳴る自らの鼓動を聞いていた。こうして他の人間と、口をきいているのはいったい何年ぶりだろうかと。しかし、シロが与える肩の重みが、彼に染みついた臆病を振り払う。此処に居たい、シロと共に──。
「あ、あの……もう、何も持ってこなくて、良いですから、ここで、暮らさせてください……」
 そうして、必殺技として教えられた「お辞儀」をしてみせれば──怖々あげた顔のすぐ先に、男児の大きな目があった。
「おにいちゃん……キレー……」
「こ、こら、よしなさい……」
 止める母親も、まじまじとセフィドを見詰めている。そして、本当なのか、と尋ねた。本当に、何もしないのか、と。セフィドは心の中で喝采を上げた。勿論だと何度も頷き、母親の手を取り、その手の平に氷の花を咲かせて見せた。
「ま!」
「ほうせきみたいだね、かあさん! 皆に教えよう、怖い人じゃあないって……!」
「ええ、そうしましょう……セフィドさん、申し訳ありませんでした! よろしければ、今度山を下りていらして。満月の晩に、この村ではお祭りがありますの。雪が降ったら素敵だわ」
 チチ、とシロが肩で鳴く。もう大丈夫、の合図だ。安堵したセフィドが二人にきっと行くと約束し、手を振ったそのとき、彼が浮かべていた表情は、特訓の成果ではない。
 ほんものの「笑顔」であった。

 ところがだ。

「信じられない……お祭りに招かれたよ! たった一度で。シロ、君のお陰……あれ、シロ……なんだいその顔は……まるで、怒ってる……みたいだ」
 シロが、何故だかへそを曲げてしまったのだ。計画は上手くいき、合格の合図だってくれたのに。
「シロ、なあ、シロったら……何がそんなに気に入らなかったのかい、教えておくれ」
「……」
 再び元の大きさに戻ったシロの、大きな体は完全にセフィドに背を向けている。いつもふわふわとした毛も四枚の真っ白な翼もくったりと項垂れ、真っ白な床と一体化している。
「シロ、……こっちを向いて、いつもみたいにボクを見てよ。君が話をしてくれないなら、お祭りに何度呼ばれてもちっとも嬉しくない」
「……」
「シロ、シロ……」
 セフィドはしなやかな指先で、彼の角の生えた頭を、前に長く伸びた鼻面を──それは、シロが成長と共に、シロが知る生き物と似た姿に変わって行った部分だ──撫でた。そして、やっと白状させた。

「友達、とおっしゃいました……旦那様は、私を友達だ、と……それが……それで、胸が苦しくなりました」
「……友だちじゃあ、ないと言うの」
 シロはフルフルと立派な尾を振った。それも、彼が成長の過程で身につけたものだ。
「私は、自分を家来だと思っておりました……しかし、それも違うようです……私は、私は──」
 にゅっと腕が伸びて来て、セフィドを掴んだかと思うと、ぎゅっとふかふかの胸に抱き寄せる。それは、十年前赤い実を掴んでいた小さな手と同じとは思えない。強い強い力だった。
「──お慕いしております……セフィド様。家来でも、友達でもなく……貴方様に作られた命である癖に、私は、貴方に恋をしてしまったのです……気持ちが悪ければ、あなたの魔力で消してください」
 シロの毛に覆い尽くされたセフィドの胸が、ドキドキと鳴り始めた。それは、先ほどの比ではない。彼はすっかり言葉を失っていた。けれど、生まれて初めての感覚に、ただただ驚いていた。
──あたたかい……。
「すごい……暖かいって、こういうことなんだね、シロ……」
「……旦那様」
「誰がお前を消すものか……ボクらの名前はなんだって良いよ、いいから──ずっと傍にいておくれ、そうして……一緒に、」
 お祭りに行こう──シロの長い顔を、セフィドは両の手のひらで包み込む。長い時間見つめ合った末、二人が鼻をコツンとぶつけたのは、無知ゆえだったけれど、
──好きだよ……。
 彼らにとっては十分な、愛の挨拶であった。
 
 もう、魔術師は居場所を変えない。雪に囲まれた家で暖かな時間を過ごし、満月の度に小さいシロと共に山を下りる。

「わあ……すごいすごい! 私にも作って」
「私にも!」
 そして、雪の彫刻を作ったり小さな氷の王冠を作ってやって皆を喜ばせ、大歓迎されたのだった。

 祭りの間、シロは決して大きくなりたがらなかった。
 その理由が美しい魔術師を狙う輩が居ないか見張るためだということは、余談である。

(了)
 

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