「じゃ、おつかれさん」
いつも同じ投げやりな別れの言葉を残し、彼は明け方の街へ去る。
鍵と扉が開く音も、大きな手から扉が放れ、自然に閉まる扉の音もいつもと同じ。
ためらいも、名残惜しさも何もない。一度だけ、慌てて飛び起きてシャツだけ羽織り、扉の隙間から後ろ姿を見送ったことがある。彼は底の分厚いブーツをざくざく鳴らし、廊下を端まで進んだ後、エレベーターが一階か高層階にあったのか知らないけど、ため息をついてきびすを返し、非常階段の方へ面倒そうに歩みを進めた。とにかく僕の住まいから一刻も早く去りたい──そんな彼の苛立ちが見てとれた。
その様子を見てから一度も、僕は彼を見送っていない。「こと」が済めばここにも僕にも用は無い──分かっているとはいえ、あからさまにされるのは辛い……くらいの感情が、僕にはある。
彼がどこに住んでいて、何をしてる人なのか、僕は知らない。予想がつくのは、肉体労働者なんだろうなってことぐらい。
始まりは、酔いつぶれて座り込んでいた大柄なその人を深夜の路地で見つけ、声をかけたこと。「大丈夫?」僕の言葉と伸ばした指先を彼は結構な勢いで追い払った。「んなわけねえだろ」その釣り目は充血して恐ろしく据わっていた。僕の勤めるお店でたまに見かける「その筋の人」どころの怖さじゃなかったものだから、僕はすぐに「……きゅ、救急車、呼びますね」と聞こえるかどうかの震え声で告げて──告げたら、告げたら……その後のことはあんまり、覚えてないんだけど、何故だか彼は救急車ではなくタクシーを呼ばせ、自分を僕の家で休ませろと言った。ずっと、腕を強く掴まれてたことはよく覚えてる。彼は終始僕の前をずんずん歩いていて、僕は僕の家に帰るのに、彼の家に連れていかれるみたいだった。
つよい蠍に捕まって、巣穴にひきずりこまれるみたいだった。
命じられて鍵を開けるや否や、酒臭いなんてもんじゃない彼に抱えあげられベッドに放り投げられた。
「売れっ子なんだな、そうだろうな」
そんなことを、仕事終わりでさっぱりさせたばかりの身体をまたドロドロにされながら言われたことも覚えてる。
それは僕の住まいが、僕の見た目や年齢に反して立派だったからなのか、身体の「慣れ」で「そういう仕事」だと分かったからなのか分からない。けど、彼に見下ろされ、脚を抱え上げられたり後ろから穿たれている間じゅう……そう、僕は、……ものすごく恥ずかしかった。心臓のどきどきがうるさくて、いつまでもおさまらなかった。
慣れてるのに。
それはもう、見目だけ良くて残りは全部最低な僕が、慣れきっていることなのに。
僕は僕を買ったり飼ったりしている幾人ものうちの誰に何をされるより、その泥や油で汚れた作業着の人にされた全てにはげしく感じた。初めて「そこ」に触れられないのに達した。それも、何度も。
「流石だな」彼はそれを僕がプロだからだと思ったようだったけど、違う。こんなことは一度もなかった。いかないとお客さんに失礼だから、僕はいつも「努力して」いた。演技だってしたし、嘘もついた。だから、子犬がクンクン鳴くみたいな変な声が出てびっくりしてたし、逆にうーうー唸るのが止まらなくなって混乱したし──まさか「じゃ、おつかれ」って翌朝早く彼が出て行ってからまた数日後、インターフォンの向こうに彼が現れるなんて思ってもいなかった。
そして、黙って鍵を開ける自分のことなんか、もっと予想してなかった。
これはいけないことだ。僕が僕を無料で「売る」ことはとんでもない「けいやくいはん」で、お店やお店に関係のある怖い人にバレたらどうなるか分からない。僕はまあ、痛い目に遭わされはするだろうけど殺されることはないと思う。だけど彼は──……たぶん。僕は一度、彼に自分の店のことを話したことがある。危ないです、って。だけど彼の返事は「フーン、そりゃやべえな」だけで、それ以降、何が変わるわけでも無かった。
だから、予定を伝えることにした。この日はずっとお店の仕事がある、この日はお客さんが来るからダメだとおもう──電話で伝えれば、彼は興味なさそうではあったけど、聞いてはくれた。そして、その晩は来なかった。
──今日、時間ある日だけど……分かってくれてるかな……。
僕は、インターフォンが鳴るのを待っている。ありもしなかった学生時代の、片想いの相手からメッセージが来ないかと、何度も何度もスマホの画面をリロードしてしまうような無意識で。どうしてこんな風に思うのか分からない。僕は本当に見た目以外はダメだから。この気持ちを表す言葉を知らない。
だけど、儚い期待を抱いていたりする。いつか彼が名前を教えてくれること。僕の名前を聞いてくれること。めちゃくちゃに抱きながら、名前を呼んでくれること。呼びあうこと。
「じゃ、おつかれさん」
以外の言葉を、言ってくれること──。
──無い、よね……。
その晩彼は来ず、代わりに僕は素敵な夢を見た。たくさんセックスをした後、知らないやさしさで、服を着せてくれる。それから、僕の名前を呼んでこう言う。
「逃げるか」
僕はうんとうなずいて、一緒に明け方の街に出る。そしたら怖い人たちが待ち構えてて、怒鳴りながら大勢追いかけて来るんだけど、彼が全員やっつけてくれるんだ。
「おはようございます……」
僕は良い気分で出勤した。夢でもなんでもとっても幸せで、嬉しかったから。
──……、……あ。れ……?
でも、その日お店に出たら、いつもと様子がちがってた。なんだか分からない黒い塊が……黒じゃない、カーキ色が赤く染まって黒に見えるものが……「人だったっぽい」塊が、僕の目の前に転がっていた。怖い人たちがたくさんいて、ニヤニヤ笑って「それ」を蹴ったり踏んだりしてる。
「おい……次コソコソつまんねえことしたら、男だけじゃ済まさねえぞ……手足がねえのがお好みの紳士もいらっしゃるんだからな?」
僕は「あ」と小さく言った。
昨日の晩、彼が来なかった理由がわかった。来なかったんじゃなく、来れなかったんだ。
『なあお前、北と南、どっちに行きてえんだ?』
『森行きたい、いっぱい木があるとこ行きたい』
『は、答えになってねえよ……ま、お前の名前、スイってんだもんな。ミドリとも読むんだっけ?』
『うん、そうだよ』
でも僕は夢を見た。
そういう夢を、見たんだよ。
(了)
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